メストリ・パスチーニャのグループCECA(Centro Esportivo de Capoeira Angola)のとても貴重な映像がyoutubeにアップされました。

タイトルは「LPのリリース」となっているので、これがメストリ・パスチーニャのLPレコードのことを言ってるとしたら1969年のことだぞ!!えっ、そんな映像残ってるのか?でも本当だとしたら、とんでもないお宝が写っているかも、とドキドキしながら見てみました。

MESTRE JOÃO PEQUENO, MESTRE CURIÓ, MESTRE BIGO, MESTRE GIGANTE, MESTRE BOBÓ, MESTRE PAPO AMARELO, MESTRE GILDO ALFINETEといった長老たち(半分は故人)が参加しているそうですが、みなさんあまりに若々しいのと、会場が暗いので、誰が誰かほとんど分かりません。

ただ年代については、記者のインタビューに答えるメストリ・ジョアン・ピケーノが、現在63歳だと答えていることから、彼が1917年生まれであることからして、このイベントは1980年のものであるようです。

それにしてもこの1980年という年は、メストリ・パスチーニャが亡くなる前年、メストリ・モライスがリオから戻ってサルヴァドールでGCAPを始動させる2年前に当たりますから、ある意味、今日につながるカポエイラ・アンゴーラの礎が固まる前の、アンゴーラがいわゆる「消えゆくカポエイラ」と言われていた時期のホーダだということになります。76年にアカデミアを失い、失意の中、養老院で貧困生活をおくっていたメストリ・パスチーニャが亡くなるのはこの翌年です。

そういう目であらためてこの映像を見ると、また違った感傷がわいてくるのと同時に、いろいろな点に気づきます。

ユニフォームが統一されていない。シャツが黄色と白があるのは別のグループなのでしょうか?黄色のシャツでもズボンの色はバラバラです。

*技の種類。黄色のシャツの人たちもいわゆるケイシャーダ、高いアルマーダなど、今日、アンゴーラの特徴を損なうとされている蹴り技も使っています。80年代当時バイーアで黄色のシャツをユニフォームにしていたのはCECAが唯一だったと思われるので、おそらくはパスチーニャの生徒たちであると思われます。

バテリアのスピード、ハーモニーがパスチーニャのレコードよりもヴァウデマールの音源のものに近いように聞こえる。スピードも、メストリ・ビンバのLP『Curso de Capoeira Regional』のコヒードに勝るとも劣らない速さです。

楽器の種類と数。暗くてよく見えない部分もありますが、ビリンバウ2本、パンデイロ1枚、アゴゴ1つ、アタバキ1つで、並び方も固定されていないのか、途中で場所が入れ替わっているように見えます。

パウマ(手拍子)がされている。これもメストリ・モライスは当初からカポエイラ・アンゴーラではパウマはしないと言っていましたが、彼の先輩たちが出演している「パスチーニャ」のホーダではパウマが行われていたこと(少なくともこの日は)の実例になるでしょう。

今日のアンゴーラの発展につながるカポエイラ・アンゴーラ復興の起点として、一つの節目ととらえられているのはメストリ・モライスのリオからの帰郷とGCAPのサルヴァドールでの始動です。この映像は、その前のサルヴァドールでアンゴレイロたちがどのようなホーダを行っていたかを垣間見ることのできる貴重な資料として見ることができると思います。

インタビューの中でジョアン・ピケーノが言っている内容は、ようするに「自分のアカデミアを持つよう言われたこともあるが、メストリ・パスチーニャの生きているうちは、メストリはパスチーニャであり、アカデミアはパスチーニャのものだ」ということだと思います。今日のように、生徒たちがどんどん独立して、ある意味自分のメストリと市場競争をしている状況を戒める言葉として、いろいろなメストリからこれまで聞かされていたことです。もしかしたら、この時のジョアン・ピケーノの言葉が拠り所になっているのかもしれません。

そしてメストリ・パスチーニャの最晩年の様子。半生をカポエイラにささげた人間の最晩年として、あまりにも悲しいものを感じます。どんな分野にもありがちですが、彼の真の業績が認められるのは、その死後何年もたってからのことでした。

このように一つの映像、一枚の写真が掘り起こされるたびに、私たちは様々な情報を読み解き、「言い伝え」との整合性をそこに探すことができます。これもカポエイラの楽しみ方の一つでしょう。