最近の一連の文化盗用に関する記事を読んだ、うちのグループのメンバーからとてもいい質問が出てきましたので、皆さんにもシェアしますね。ブラジルでもまさに「あるある」のトピックばかりで、これらの疑問たちが議論をややこしくしてる部分が大きいんです。これらの問題をあらかじめ話し合っておくことで、今後の文化盗用に関する議論が非常にクリアーになってくると思います。

私もまだまだ勉強中ですので、これまで理解してきた範囲で自分の考えを書いておきたいと思います。

Q1: もしこれが和服やちょんまげなら、むしろ興味あるから、クールだからって和服着たりチョンマゲ結ってくれるなら「興味示してくれてありがとう!!」って気持ちになる。
そもそも、好きじゃなきゃマネしてミュージックビデオにわざわざ流さないとも思う。
被害者意識過剰な一部の連中がここぞとばかりに騒ぎ立ててるだけじゃないのか、と思ってしまう。

※(アヴリル・ラヴィーンが日本をテーマにしたPVを作ったり、パリス・ヒルトンがハロウィンの仮想パーティーでネイティヴ・アメリカンの衣装を着たことなどの話はこちらhttps://neutmagazine.com/steeling-culture

「オンリー・ザ・ストロング」の記事の時にも書きましたが、ある行為が文化盗用に当たるかどうかを判定する基準として、次の2つを両方とも満たしているかという点があります。

①特定の人種、文化、宗教グループの持つ文化的シンボルや宗教的要素が本来の意味を骨抜きにされている。
②盗用したとされるグループがその社会の中で人種的、階級的に優位であり、盗用の結果、盗用されたグループの文化の継承が危機的な状況にさらされる。

和服やちょんまげの場合、どうでしょうか?

①について、和服もちょんまげも日本独特な風俗ではありますが、宗教的なシンボルとまでは言えないですね。では日本人のアイデンティティーとして決定的な重要性を持つシンボルかというと、明治の文明開化の時に、日本が自らすすんで廃止しています。それは開国によって来日する欧米人たちに、未開な民俗だとみられるのを恐れてのことだったようです。このような経緯からしても、和服やちょんまげが持つ意味が骨抜きにされているかというと、ちょっと微妙な気はしますね。

それよりも重要なのは②のほうです。それはアメリカ人と日本人の関係が、ブラジルにおける白人と黒人のような優位・劣位の関係にないということです。仮に和服やちょんまげをどのように侮辱されても、それによって日本の和装文化の継承が脅かされる心配はありません。この点が決定的に重要な点なんですね。

なので、たとえばキリスト教徒でもない人が十字架のペンダントを単にクールだからという理由で身につける場合、それは宗教的な意味を骨抜きにしていますが、カトリック教会という圧倒的優位にあるマジョリティーのシンボルである十字架は、何の危機的状況にもさらされません。この場合は、文化盗用とは言えないんですね。

ましてや日本人がアメリカで発明されたジーンズを履いても、facebookを利用しても、それは文化盗用とは言えないのです。

ようは自分の文化じゃないものを使うことが、何でもかんでも文化盗用になるわけではないということです。それがネガティブな扱いを受けた場合、ただ自分たちの文化をバカにされたというだけの話になります。

Q2: 僕は「文化」なんてものは常に変化してくもんだと思ってます。そこには是も非も善悪も無い。ただ必然があるだけだと思ってます。
「盗用」と言うよりは、「浸透」「順応」「発展」「進化」。文化に盗用なんてこんな形では無いのではと、個人的にはそう捉えてます。
あの記事で言うなら本当の盗用ってのはカポエイラの発祥、起源はイギリスです。って言う事だと思います。

文化が常に変化していくものというのは全くその通りですね。ただその要因は「時とともに自然に」という平和的なものばかりでもありません。

例えば奴隷とされたブラジルの黒人の場合は、言語も宗教も風俗も力づくで禁止されていました。そこでの文化の変化というのは完全に暴力の結果だと思うんですね。奴隷制が廃止されて、1890年に共和制政府が最初に行ったことは、今度は刑法で法的にカンドンブレやカポエイラを違法とすることでした。これは「浸透」「順応」「発展」「進化」とは言えないと思います。

そういう状況の中で、文字通り命をかけて受け継いできたカポエイラやサンバを、白人が都合のいいように利用することが文化盗用です。

Q3: 日本人は150年前に着物から洋服に着替えました。数百年続けたちょんまげを捨て「ざんぎりアタマ」に替えました。
では、西洋風になったこれは「文化の盗用」でしょうか?逆に文化を尊重するなら、我々は今でもちょんまげでいるのが正しいのでしょうか?

これはQ1でも書いたように、マイノリティーがマジョリティーの文化を使用しても、それは文化盗用には当たりません。それによってマジョリティーの文化はびくともしないからです。

Q4:それこそブラジルだって盗用してます。「ブラジリアン柔術」。
勝手に本来の柔術を捻じ曲げてブラジル人が恩恵を得ている。
でも、それに不満を唱える日本人はいない(?)し、むしろグレイシーが猛威を振るった頃には逆輸入されて大人気でした。
では、あれは「文化の盗用」でしょうか?

柔術の場合はどう考えればいいんでしょうね?

まずカルロス・グレイシーに「柔術」を教えたコンデ・コマこと前田光世は講道館で柔道を学んだ柔道家でした。ただ当時は「柔術」という名のほうが通っていたため、柔術を名乗っていたようです。

これも上記の2つの条件に照らした場合、①についてはどうでしょうか?グレイシー一家のしたことが、日本の柔術の本質を捻じ曲げるようなものだったかどうか、私に判定する力はありません。ただヒクソン辺りの言動や修行の仕方を見ていると、日本の選手以上に日本人的な精神性が見られるような気もします。テレビの取材を通してなので、私も本当のところは分かりませんが。

ただカンドンブレを信仰する白人がターバンをつけても文化盗用をしているとは言われないように、きちんとその文化に敬意を払い、その文脈にそって使用している分については文化盗用とはみなされません。

さらに②についてですが、当時の日本ですでに衰退状態にあった柔術が、かりにグレイシー一家の登場によっていっそう継承を妨げられるような影響を被ったとしても、その主体である日本人がどう考えてもマイノリティーとは言えないので、グレイシー柔術が文化盗用に当たるということは難しいのではと思います。

Q5: 乱暴に言えば、黒人自身がそもそも黒人の文化に誇りを持ってないんじゃないかと思うところがあります。
もしくは誇りは持ってるのになにか放棄しているか。もしくは放棄せざるを得なかったか。
それでも、なんか黒人(と呼称される社会)の被害者妄想って気がしなくもないです。

これについては私個人的にはそのようには思いません。もちろん自尊感情を黒人たちが持ちにくいのは、絶え間ないブラジルの白人化政策と文化的ジェノサイドのおかげで、誇りを持ちたくても持ちようがない状況に置かれていたということはできます。

昨日youtubeに私が日本語の字幕動画を投稿したガビ・オリベイラさんのように、多くの黒人の方々は自分の容姿を恨まざるを得ない社会の中で暮らすことを余儀なくされています。果たしてこれは彼らの誇りが低いからでしょうか?むしろあれだけ過酷な差別環境の中でも多くの人々が誇りを手放していないからこそ、今日まで人種主義との戦いが続いているんだと思います。

Q6: 成功してる人は努力してる。そうじゃ無い人はそのように。それは白人社会だって同じです。
確率の問題はあるかもしれない。白ければ100人中50人が抜けれる門を黒いからって理由で20人しか抜けられないとか、そういう問題はあるかもしれない。
それなら抜けた黒人が門を広げる努力をすれば良い話だと思います。

成功している人は努力しているというのは、「そうあってほしい」「そうあるべきだ」という願望のレベルでは賛成なのですが、日本の感覚でブラジルを論じられないというのはありますね。

ブラジルに黒人と同じくらい貧しい白人がいるというのは事実です。でも失業中の白人と黒人が同じ企業の面接に行って、どちらが先に採用されるかといえば多くの場合白人です。同じように景気が悪くなってどちらか一人解雇しなくてはならないとき、多くの場合、黒人が先に首を斬られます。人種主義というのはそういうもので、同じ貧しい中でも肌の色による恩恵(privilégio)は確実に存在します。

同様に国会議員や大学教授や医者、弁護士に黒人の割合が低いのは、黒人の努力が足りないせいでしょうか?学費が無料のブラジル・トップレベルの国立大学に入るには、学費の高額な私立高校に入らねばならず、そういう高校に入学できる黒人は極めて少数です。そのため黒人に大学進学の機会を与えようというのが、黒人に一定の定員枠を割り当てようというcotaです。いわゆるアファーマティブ・アクションというやつです。でもそれは黒人の能力が低く、努力もしないから救済しようというのではありません。あくまでも、機会の不平等、教育へのアクセスの困難さを埋め合わせるための施策なんですね。

黒人たちが奴隷の身分を解放された後、何の支援策も施されなかったばかりか、国の発展の足かせになるとして常に排除されてきたのに対し、ヨーロッパから導入された白人の移民たちには、土地をはじめ、様々な優遇措置が用意されていました。そもそものスタートラインが不利なうえに、ブラジル政府は、国を挙げて構造的に黒人たちを社会の底辺に押しとどめるようにしてきました。それは現在も進行中の「国家プロジェクト」です。

白人が黒人より社会的に影響力のあるポストにいるのは、「確率」の問題では決してないと思います。そして並外れた努力と運が重なってのし上がることのできた少数の黒人たちに、「門を広げるためにおまえたちでなんとかしろ」と言うのは、全くのお門違いだと思います。