カポエイラを習っているあなた、教えてるあなたはブラジルに関心がありますか?いえ、別になくてもいいんですが、ちなみにどれくらい関心がないですか?

日本で日本人の先生に習っていて、自分にとってはそれで完結。ポルトガル語の「ポ」の字も、ブラジルの「ブ」の字も気にならない、ましてやアフリカの「ア」の字なんて・・・。

そういうカポエイリスタがやはり出てくるよね、実際イギリスには出てきてるよ、って話を、今朝たまたまメールで送られてきたカポ関係の記事で読んだんです。いろいろ日本の状況に重なるところも少なくなく、私たちの進む道を考えるいいネタになると思います。

タイトルは「メストリ・ファンタズマとヨーロッパにおけるカポエイラの位置づけなおし(Mestre Fantasma e a relocalização da capoeira na Europa)」で、ダニエル・グラナダという人が『Revista Antropolítica』no.38,2015という雑誌に寄稿した記事です。「ロンドンでカポエイラのメストリになるということ」という副題がついています。

メストリ・ファンタズマは、私も親しいというほどではありませんが何度か面識はあります。とても体の大きな白人で、リオのメストリ・マホンの生徒です。それこそバビロニアの丘にあるフェハドゥーラの家の隣にセカンド・ハウスを構えているので、私もいつもその前を通ってました。

さて、著者の結論というより、私が気になったポイントをざっくり言うとこんな感じです。

イギリス人として最初のカポエイラ・アンゴーラのメストリになったメストリ・ファンタズマと彼のイギリス人の生徒たちにとって、カポエイラは完全にブラジル的なもので、アフリカ的なものにあまり重きを置いていない。彼のグループではアタバキを使わない。

生徒たちの中には、メストリ・ファンタズマを介してブラジルとのつながりを大事だと考えている者もいるが、流れとしてはイギリスの環境に適応した取り組まれ方が求められ、ブラジルとのつながりを重要だと考えない傾向が強まってきている。

インタビューを受けた生徒の一人は、自分たちのカポエイラを確立するのが優先という文脈で、「自分で自分の家を片付けるのと、金を払って人に片づけてもらうのとどっちがいいか?」という表現の仕方で、ブラジルのことを気にすることなく、いまここにあるカポエイラ、つまりロンドンのカポエイラに集中すべきだと言っています。

興味深かったのは、「なぜブラジル人の先生ではなく、イギリス人のメストリ・ファンタズマに習おうと思ったのか?」と聞かれた生徒の答えは、「ブラジル人の先生は経済的な都合で一時的に滞在し、またブラジルに戻ってしまうが、イギリス人の先生にはその心配がない。英語で説明してもらえるのがありがたい。先生はポルトガル語を話すので、ブラジルとのつながりも担保される」というものでした。イギリス人であることが「正統性に欠ける」とマイナスに見られるどころか、メリットだととらえられているんですね。逆に言えば「ブラジル人である」という事実だけで「本場ブラジルの本物のカポエイラだから、こっちに習いたい」とはなってないということでもあります。きっと多くの日本人カポエイリスタも同じように答えるのではないでしょうか。

私の個人的な感覚では、日本のカポエイラは、ブラジルの親団体やブラジル人の先生とそれなりのパイプを維持していると感じています。もちろんグループの在り方としてはそうであっても、生徒さんたちのヴィジョンの違い、取り組み方の濃淡があるのは当然ですね。ただ需要が供給を作るというのが資本主義の原則であるとはいえ、供給する側の誘導の仕方で需要の形が変わってくるという側面も確実にあると思います。私自身も供給側の人間の一人として、日本の中で完結させない、ブラジルとの結びつきの重要性を常に生徒の皆さんに訴えられているか、あらためて自己点検しなければならないと感じています。

翻ってここ最近このブログで取り上げている文化盗用(apropriação cultural)、ブラジル社会の骨格にある人種主義(racismo)、ネグロにとってのカポエイラ(capoeira negra)といった話を理解するためには、「カポエイラ=ブラジル」からさらに一歩踏み込んで、「カポエイラ=アフロ・ブラジル」という視点が不可欠です。そしてそのまなざしは当のブラジルでも薄れつつあるということを見てきています。

ただ私としては、この先も少しずつ話を進めていくつもりですが、上の視点をすっ飛ばしていきなり「カポエイラは自由だ」とか「カポエイラのホーダではだれもが平等だ」などとユニバーサルな美辞麗句を並べるべきではないと考えています。私はカポエイラを通じて、今の日本をより生きやすい、風通しのいい人間関係の場にしていく働きかけができると信じていますが、それを上滑りなパフォーマンスにしないためにも、私たちの中にブラジルのネグロという、もうひとつの「視点」を持つことが欠かせないと思います。が、そうでもないでしょうか?