この映画を見てカポエイラを始めたという人は少なくないと思います。自分の出発点、カポエイラに出会わせてくれた恩人として大事に思っている人もいるだろうと想像します。が・・・

「切り捨て、御免!」とバッサリ行きますので、傷心のカポエイリスタで日本各地が流血の惨事になったらすみません。

というのは冗談で、別にこの作品に感化されてカポエイラを始めた人たちを批判するつもりは全くありませんし、この作品の制作にかかわった人々を責める気もありません。ただ先日の記事で取り上げた「文化盗用(apropriação cultural)」の問題をどうしたら分かりやすく話せるかとずっと考えていて、ふと思いついたのが、誰もが知っているこの作品を例に挙げることでした。

ですので私の本意はカポエイラにおける文化盗用の一つの形をお見せするという、そこだけです。

念のため、もう一度文化盗用の意味するところを確認しておきましょう。大事なのは次の2つの視点です。

①特定の人種、文化、宗教グループの持つ文化的シンボルや宗教的要素が本来の意味を骨抜きにされている。
②盗用したとされるグループがその社会の中で人種的、階級的に優位であり、盗用の結果、盗用されたグループの文化の継承が危機的な状況にさらされる。

このうち2つ目の点については、今はブラジルの白人と黒人の関係になりますので、その置かれた状況の差は歴然です。なのでここでは1つ目の、文化的意味の歪曲、骨抜きがあるかを中心に見ていきたいと思います。

では、まずはじめに一番わかりやすい作品のタイトルから行きましょうか。英語のタイトル「Only the strong」を日本語に直訳すれば「強者だけ」となります。こういう価値観はようするにK-1と同じじゃないですか?相手を叩きのめして勝ったほうがえらい、という!市場の分捕り合戦で学校でも会社でも競争を強いられる資本主義社会の価値観そのものであり、四字熟語で言えば「弱肉強食」、カポエイラの歴史的には「senhor」や「capitão do mato」の視線です。

いっぽうでカポエイラのまなざしは抑圧された民のもの、弱者のものであり、常に下から上を見上げる視線です。その意味で、オンリー・ザ・ストロング(強者だけ)というタイトルは、カポエイラの生み出された背景、先人たちが抑圧を切り抜けてカポエイラを守り通してきた歴史的経緯に全く逆行していると言わざるを得ません。もうタイトルのつけ方からすでに、カポエイラの歴史を冒とくしているともいえる、明らかな意味の歪曲が見られます。本当にカポエイラの歴史を踏まえるなら、「Only the weak」(弱者だけ)のほうがよほど気が利いていたと思います。

ちなみにこの作品を米国から輸入したカポエイラの祖国ブラジルはどういうタイトルを付けたか知ってますか?「Esporte sangrento」(血なまぐさいスポーツ)です(笑)。もう笑うしかありません(本当は笑えないんですが)。自国の誇るべき文化に対するリスペクトのかけらもないですよね。むしろ「血なまぐさい」なんて陳腐な形容詞をつけて少しでも売り上げを伸ばしたいという商魂が透けて見えます。

上のDVDケースの写真にも「The ultimate martial art」(究極の格闘技)とキャッチコピーをつけてくれていますが、結局はどっちがどれだけ強いかという、そういう視点からしか見ていないということです。その写真もむしろ香港のカンフー映画に見えるのは私だけでしょうか?どこかにカポエイラっぽさ感じられますか?

もうすでにしょんぼりしてしまったあなた。中身を見るとさらに悲しくなります。

たとえば主人公が赴任することになる学校で、ギャングのメンバーが子分の学生を責めるシーン。ギャングのほうも不良少年のほうも黒人です。それを白人の学生たちが取り巻いています。そこに主人公が仲裁に入って、悪の黒人をやっつけます。カポエイラが黒人をやっつけるんです・・・。それをやんやの喝さいで学生たちも教員たちも熱狂して見ています。



結局はここでも黒人は悪者として描かれています。典型的なステレオタイプですね。黒人=犯罪者、危険というイメージを再生産することに加担しているだけです。これがカポエイラを主題とした映画のやることでしょうか?ほかの映画がこんな描き方しかしなくても、カポエイラの映画であれば黒人の視点に立って描くのが「筋」ではないでしょうか?

これじゃまるでミネアポリスでフロイドさんを殺した白人警察官と同じまなざしです。この映画を見終わった人が、カポエイラの生みの親である黒人に敬意を払うようになるでしょうか?あるいはこれを見た黒人の子どもたちが自らの文化に誇りを感じるようになるでしょうか?あなたが黒人の親なら子供にこの映画見せますか?

ギャングのボスはリオの最悪のファヴェーラで生まれ育ち、そこでカポエイラを身につけた、こちらもカポエイラの使い手という設定になっています。この経緯からして彼は南米からアメリカに渡った移民ということでしょう。ギャングのヒエラルキーの中でもトップはラテン系移民で、黒人はその手下でしかないんですね。

もう一つ気になったのは、ボスがカポエイラを身につけたのがバイーアではなくリオだったという点です。制作者側がどこまで意識していたか知る由もありませんが、20世紀初頭のリオではズマ、シニョジーニョら白人のカポエイラ指導者が活躍し、タンクトップにトランクスといういでたちで、カポエイラのスポーツ競技化、国民体操化がもくろまれたのでした。奴隷制が廃止されたのが1888年。黒人の存在をブラジル発展の足かせと感じていた支配層は、ヨーロッパの優生思想を取り入れて、ブラジル国民を白くすることに努めます。当時の支配層がカポエイラの黒人性を浄化し、「われわれの」「ブラジルの」「白い」カポエイラを作り上げようとしたのは、この文脈で理解されます。それこそ完全無欠、100点満点の文化盗用です。もしそこまで分かったうえで制作者がボスのカポエイラをリオに設定したなら、ある意味この作品の仕上がりと一貫性が取れていると言えるでしょう。つまりは確信犯だということになります。

ではカポエイラの技術的な部分はどうでしょうか?まずジンガがお粗末といいますか、本来ならボクシングのようなステップをしたいところに、一応カポエイラということで無理にジンガを取ってつけたようなちぐはぐさが見て取れます。アクションは案の定、派手な飛び蹴り、アクロバットが主体で、単に相手を倒す格闘のツールとして描かれています。あの戦い方であれば空手でもムエタイでも同じことで、とくにカポエイラを主題として持ってくる必要もないでしょう。ここにもたんに目新しさだけを狙った興行的意図を感じてしまいます。

今日私たちが感じているカポエイラの魅力、相手と一緒にジョーゴを作り上げるというような側面がどこかに表現されているでしょうか?暴力には暴力で。強いものだけが生き残る。そこにはカポエイラ的な戦略(マンジンガ)も知性のかけらも見られません。ただのハリウッドのB級アクション映画。娯楽として消費されるためだけ、これは裏を返せば、売って金を儲けるためだけの商品にされているということです。

ではこれで儲かるのは誰でしょう・・・・・?

そういうことです。

とりあえず映画に描かれていることについて指摘していますが、本当は描かれていないことについても批判の目は向けられるべきでしょう。先人を敬う精神、音楽、儀礼的な側面はほぼゼロです。ようするにこの映画の監督が、カポエイラのユニークさに魅了されて、カポエイラならではのいいところを世の中に知ってほしいと思って、この映画を撮ったようにはどう頑張っても思えないんですね。むしろ本当にカポエイラのこと分かってるの?と疑いたくなるようなことばかりです。

こういう話をすると、「まぁまぁそんな固いことを言わなくても、しょせん映画なんだから。興行的に採算をとるためにはやむを得ないよ」とか「少なくともカポエイラの名前が知れ渡るからいいじゃん。きっと生徒増えるよ」という声が上がったりします。でもまさにこれこそが文化盗用なんですね。そういう見方は、この映画によって何の痛みも不利益も被らない「盗用する側」の理屈にすぎません。仮にそこに悪意がないとしても、結果としてカポエイラの持つ重要な意味が骨抜きにされ、この作品を見る人たちに間違ったイメージを植え付けることになります。そのことは黒人たちが本来の意味を維持した形でカポエイラを継承していくことの大きな障害になります。さらに不公正なことに、多くの場合、そこで得られる経済的利益は盗用した側が享受し、彼らにカポエイラを与えた人々にまでは還元されません。

「カポエイラは自由だ」(Capoeira é liberdade)という美しいフレーズを持ち出す人もいるでしょう。これについては私自身も、これまで自分がこのフレーズを使ってきた文脈を反省する必要がありますが、「カポエイラは自由だから何でもありだ」と解釈するのはとても危険だし、それそのものが意味の骨抜きを意味します。「なんでもありえる」というのは、裏を返せば「なにものでもない」ということで、実際に様々な分野で黒人性が薄められる要因となっています。そもそも奴隷とされた人たちが、生きるか死ぬかという状況で希求した自由と個人や会社が自らの利益のためにカポエイラを「自由に」利用するというのが、同じ次元で語られていいわけはありませんよね。ここにも文化盗用の危険は潜んでいます。

さて、この映画に関しては細かいことを指摘しだすときりがないのですが、だいたい私が気付いた主要な点は上に見た通りです。この作品に特別な思い入れがある方には面白くない話をして申し訳ありません。ただマイノリティー・グループとの関係で、自分たちの享受している特権(privilégio)を点検する作業には痛みはつきものです。ただたいていの場合、私たちの感ずる程度の痛みは、マイノリティー・グループの被る文化的インパクトに比べれば非常に表面的なものです。この辺りはまた別の機会に。

ということで『オンリー・ザ・ストロング』。思い出は思い出として取っておいて、ただ良心的なカポエイリスタはきちんとそこから卒業し、少なくとも今後カポエイラを紹介する際にこの作品を他人に勧めることは控えるのがいいと思います。もちろんこれは私の個人的な意見ですが、皆さんが自分の考えを積み上げていくきっかけにしていただければ幸いです。