昨日6月18日のブラジル日本移民の日をお知らせした投稿に、思いのほか多くの方から反響をいただきましたので、6年前に私が友人のお父さんに行った「勝ち組・負け組」問題に関する聞き取りをシェアいたします。

素人の稚拙な作りですが、日本の敗戦がブラジルの日系社会でどんな風に受け止められていたかを生々しく語っていただいた三浦さんの声は本物です。そんな三浦さんも3年前に他界されました。時間だけはさらさら流れていきます。



第2次大戦後、祖国日本の敗戦を認めるか認めないかでブラジル日系社会が分断されました。

敗戦を認める認識派を「負け組」、日本は戦争に勝ったんだと信じる人々は「勝ち組」と呼ばれ、血気盛んな「勝ち組」の青年たちが「負け組」のリーダーたちを暗殺するという凄惨な事件が多発しました。

対戦中、連合国側についたブラジルは日本と国交を断絶します。この瞬間、ブラジルにいた日本移民は敵国からの移民となりました。

日本語での教育や集会が禁止され、逮捕者が相つぎました。警察では厳しい尋問や拷問が行われたといいます。  日本政府の役人たちは全員日本に帰ってしまい、かの地にとり残された移民たちは非常に心細い思いをします。「自分たちは日本に見捨てられた民=棄民だ」と嘆かれたのはこの時代です。

情報が極度に統制されていた当時、移民たちにとって日本の戦況や世界情勢を正確に把握できるすべはほとんどありませんでした。

日本の敗戦が告げられて大騒ぎになった移民社会でしたが、同じ日に「敗戦はデマだ。実は日本は勝ったんだ」といううわさが流れます。

敗戦を認めることは、すなわち帰る場所を失うことを意味しました。移民たちの大多数は、祈るような思いでこのうわさにすがります。彼らは「勝ち組」と呼ばれました。

一方で現実を冷静に受け止める少数の人々もいました。「認識派」とか「負け組」と呼ばれた彼らは、「勝ち組」から非国民、国賊として見られ、しばしば暴力沙汰の事件が起こりました。

これが「勝ち組」「負け組」対立の出発点です。

三浦徳治さんは1924年5月10日、秋田県協和町(現在の大仙市協和)の生まれ。1933年、9歳のときに開拓移民として家族と共にブラジルに渡りました。最初はパウリスタ本線のベベドウロ農園でコーヒーの栽培に携わります。1年後、バウルー市のバラコン植民地に移り、綿作りを手がけました。3年後マリリアに移り、そこでは53年に29歳でサンパウロ市に出るまでの青年期を過ごします。

三浦さんが「終戦」を迎えたのは、そのマリリアにいた時代でした。