日本でカポエイラという用語がどのように説明されているか。19の辞書、事典に当たって調べた前田フェルナンドさんの興味深い記事(https://japoeirando.blogspot.com/2019/08/definicao-do-verbete-capoeira-nos.html)を昨日読みました。それによると「格闘技」とするものが最も多く、続いて「ダンス」「格闘技&ダンス」の順に続くそうです。これは日本人一般の、ましてや日本人カポエイリスタのカポエイラに対する見方を反映したものではないとフェルナンドさんも断っていますが、平均的な日本人のカポエイラに対するイメージはよくてこの程度だろうと思います。

私は8つの大学で講師をしているのですが、毎年自己紹介のときに、カポエイラって知ってますかと学生に問いかけます。しかし知っていると手を上げる人はごくわずかで、聞いたことはあるけどどういうものかは分からないという人がチラホラ。まったく聞いたこともないという学生が実に半分以上なんですね。大学1年生でですよ。こんな実情ですから、辞典類に書かれている内容は「正しいもの」として一定の社会的影響力を持つのは確かだろうと思います。

なんかちょっと寂しいですよね。私たちカポエイリスタが味わっている豊かなカポエイラの世界をもう少し正確に世の中に知って欲しいと思うのは私だけでしょうか。しかしそれはひとえに私たちカポエイリスタの責任です。私たちが日ごろからカポエイラと多元的な付き合い方をしていくことが、ゆくゆくは社会のカポエイラに対する見方を変えていくのだと思います。実際それ以外ないですよね。

ところでカポエイラがダンスか格闘技か、あるいはその両方の混ざったものかという見方は、いずれもカポエイラの身体運動としての側面に注目した区分です。逆に言えば日本社会のカポエイラへのまなざしはいまだにそういうモノサシしか持っていないということです。しかしすこし深くカポエイラを修練した人であれば、その関心は精神性のほうへ向かうでしょう。そうなると芸術だ、哲学だ、いやいやコミュニケーション・ツールでもある、という見方が続くのではないでしょうか。しかしながら私が個人的に関心があって、日本のカポエイリスタにも広めたいなぁと考えている視点はもうひとつ先にあります。それはカポエイラの持つ政治性、社会性に注目したときに浮かび上がる「社会変革の手段」という見方です。もっと平たく、世直しの道具と呼んでもいいと思います。

えっ、何を急に、と驚きましたか。おそらく少なくない人たちは「そりゃそうだよね」と同意していただいていると思います。

言うまでもないことですが、社会のすべての問題を解決できるほどカポエイラは万能ではありません。カポエイラが背負う歴史をふまえて得意な分野は、人種的平等とか文化的多様性の尊重といった分野です。しかしながらこの問題はあまりにも根源的であるために、この問題について勉強すれば芋づる式に社会のあらゆる問題が一緒についてきますし、この問題を少しでもいい方向に変えて行ければ、他人を幸せにできるし、自分も幸せになれるという性質を持った問題であります。

たとえばカポエイラを通して次のような問題を考えていくことができます。カポエイラはユネスコの世界遺産に登録されるほど、その価値が国際的に高く評価されるようになったにもかかわらず、どうしてそのオリジナルの担い手たるブラジルの黒人が置かれている状況は劣悪なままなのか。ブラジル国内でも会員が何万人もいる大きなグループのトップがことごとく白人のメストリたちに占められているのはどうしてか。どうして大学のカポエイラ・サークルには白人が多く、ファヴェーラ(スラム街)のグループには黒人が多いのか。

このような問題について知識を増やし、あるべき理想や直面する課題をみんなで話し合ってみることがとても重要です。その中で黒人の子どもたちは自尊感情を高めることができるでしょうし、白人は自らの無意識に潜んでいた偏見を反省するきっかけになるでしょう。私たち日本人は教科書の中のエピソードとしてではなく、敬愛するメストリや仲間たちの顔を思い浮かべながら、自分に関係のある問題として認識できるでしょう。その先にはカポエイラをひとつの「人種(raça)」とした連帯、協働が見えてくるかもしれません。

私たちはカポエイラという地球の反対側の文化について学びながら、最終的にその視線を足下の問題、すなわち女性、朝鮮人、部落、アイヌ民族、LGBT、障がい者といった国内のさまざまなマイノリティー問題に向けることができます。それがカポエイラを社会に活かすことであり、カポエイリスタとしてカポエイラを生きることにつながります。ここに私たちがカポエイラを学ぶ大きな意義を見出せると思います。

ここまで読んで、なんだ、自分はそんな小難しいことのためにカポエイラやってるんじゃないよ、とお考えのみなさん、ご安心を。あなたはひとつも間違ってはいません。ただサッカーとか空手とかピアノとか習字とか、いろいろな習い事、種目のひとつとしてカポエイラの特徴を捉えようという場合、カポエイラはとても多面的で、さまざまな関心を持つ人々の求めに応えられるだけの間口の広さと奥行きの深さを持っているということ。とくにカポエイラが生み出された文脈、そのオリジナルの担い手たちが置かれた現状は非常に政治的で、どういう取り組み方をしても、その政治性から完全に自由にはなれないということは認めないわけにはいかないのです。

たとえば歌っている歌詞を訳してみてください。「Vou dizer ao meu sinho(ご主人様に報告しよう)」「Olha la o nego(あの黒人を見ろ)」、ほら、お分かりでしょう。ポルトガル語がよく分からないというみなさんも、知らないうちにそういう内容を大声で歌っていたんです。皆さんの関心がたとえそこにフォーカスされていないとしても、カポエイラにはあらかじめそういう問題が内蔵されているわけです。ですからたとえバク転ができるようになりたいからカポエイラを始めた人にも、その修練の過程で政治的な問題を考えるさまざまな糸口が自然に提供されているんですね。

キリがないので、最初の話に戻ります。日本の辞書のカポエイラの説明に、ダンス、格闘技以外の多様な説明を加えさせるのは私たちカポエイリスタの責任です。この先5年後、10年後の説明がより豊かなものになっていますように。祈るだけでなく、動いていきましょう!