カポエイラ=(体育+物理学+心理学)×音楽+儀礼

これは私が考案したオリジナルの公式です。この公式の解説はまた別の機会に譲りますが、現時点で私が考えるカポエイラのイメージをシンプルに図式化してみました。「理を通す」と言うのは物理学の値を上げること、「冷静さ」は心理学の値を上げることを意味します。そうすることで運動が苦手で体育の値が低くても、それをカバーして総合点を高めることが可能です。

この冷静さと理を兼ね備えたいぶし銀のジョーゴをする男が、アンゴレイロス・ド・セルタゥン バウルー支部の代表コントラ・メストリ・チコです。ものごし穏やかで口数も少ない彼は、初めて会ったときは日系人だと思ったくらい東洋的な顔立ちなのも親近感を感じます。そんな彼が、微笑をたたえながら静かな足運びで大男たちを転がしていく様子は、押し弱民族に道を示してくれているようでとても心強く感じます。私の先生、コントラ・メストリ・シャンダゥンでさえもチコが相手となると「悪役」に見えてしまうのが笑えます(ひそかに私の心はチコを応援しています。これナイショ)!

チコの動きはとてもシンプルです。無印良品がジョーゴをプロデュースしたら、きっとこんなんになるだろうという無駄のなさ。素朴でオーガニックで、それでいて機能的なのです。機能的というのは「役に立つ」「実戦で使える」という意味です。こういうことが通用するからこそ、私たちは技を磨こうと思いますし、ビビラない、呑まれない肝力を養わねばと思えるのです。

逆に言えば、こういう点を念頭においてカポエイラの修練を積むことで、日常生活でも押しの強い人に対した時に落ち着いて対処できるようになれると私は考えています。小さいホーダ(pequena roda:カポエイラをするホーダ)での学びを大きいホーダ(grande roda:人生、社会生活)に活かす分かりやすい例ですね。この見方からすれば、カポエイラはビビリで引っ込み思案の方にこそお勧めできるということになるでしょう。カポエイラをすることを通して自分の性格を変えることができるとすれば、一つはこのような道筋であるだろうと思います。

ところで「押しの強い相手に押し負けない」技術は、何もブラジルのカポエイラを待つまでもなく、もっと私たちの身近にありました。なんでしょうか。はい、武道です。

小さい者が大きいものを、非力な者が強い者を、licuriがdendêを制する技術として、押しの弱い日本人が発達させたのが武道でした。武道は、力のない者が、技術と精神力で勝ちをおさめるという発想からスタートした世界に誇る日本の伝統文化です。できるだけ力を使わずに、時には相手の力を利用する形で投げたり、締めたりする技術の体系が柔術/柔道、合気道、少林寺拳法などの形に結晶しました。

しかし戦後、GHQの指導で武道はスポーツ化の道を選ばざるを得なくなります。そこでは性別、体重別にカテゴリー分けされ、限定的なルールの中で技術的な勝敗をつけるようになりました。そもそもは24時間365日いつなんどきでも臨戦態勢にあることが求められた武道は、今日では試合や大会に向けてピンポイントで調整すればいいだけの競技スポーツになってしまいました。

さらに“ヤバイ”ことは、武道が国際化していくなかで、「小よく大を制す」の秘伝が、もともとパワーがあり押しの強いネグロイド(≒黒人)、コーカソイド(≒白人)の人たちに学ばれてしまったことです。同じ技術レベルであればパワーがあるほうが有利なのは当然です。こうなるとなかなか日本人は勝てません。その兆候は柔道にも相撲にもすでに表れています。かつてのお家芸も国技も外国人に押され始めています。

柔道や合気道を生み出す母体となったのは伝統的な柔術でした。20世紀初頭、講道館柔道の前田光世がブラジルのベレンに伝えた柔道(柔術)がグレイシー一族によって大成され、今日、日本の若者がブラジル人に学びに海を渡るのは皮肉としか言いようがありません。ここにも日本の伝統が断絶し、外国に巻き返される構図があります。対戦相手を罵倒してメンチをきる日本人の格闘家と、試合を前に静かに山篭りをするヒクソン・グレイシーを見ると、どちらが「日本人」かと思えてきませんか。

おっと、下ごしらえがサイドディッシュになりかけていました。

つまりは日本の伝統文化であった(←過去形に注意)武道を学んでも、冷静さと理で押しの強い人に対処する術を会得しにくくなってきているということです。それを可能にするためには、競技スポーツと切り離した、本来的な意味での武道を取り戻す必要があるでしょう。

こういう歴史事情を踏まえて、我々が日本人としてブラジル文化であるカポエイラに取り組む意味を考えるとき、これまでとはまた別の見方ができるのではないでしょうか?(つづく)