自殺の動機、うつの原因、生きづらさの理由のほとんどは、つまるところ人間関係に行きつきます。子供たちの不登校のきっかけも、いじめを含む友人関係が主要な原因とされています。「人づきあいが煩わしい」「なるべく他人と関わらないで生きていきたい」という人たちが増えているといいます。かく言う私も半分こちら側の人間なので、気持ちはよく理解できます。もちろん煩わしいからといって、関わらずに済むはずもないわけで、だからこそコミュニケーション力を育てようということが声高に叫ばれるようになってきています。

例えば文部科学省は、平成22年5月、コミュニケーション教育推進会議を設置し、子どもたちのコミュニケーション能力の育成を図るための具体的な方策について議論を重ねてきています。すでに多くの小学校、中学校、高校に芸術家たち(演劇関係が多い)が派遣され、ワークショップ型の授業が展開されているようです。その事例について「ねらい」や「期待される効果」を見ていると、「うわ、これカポエイラぴったりじゃん」と声を上げたくなる箇所だらけなので、これについては、また改めて取り上げられればと思います。

実際、カポエイラはコミュニケーション力の向上にいろいろな側面から貢献できると思います。

カポエイラはきわめて対話的性格の強いゲームです。基本的に直接打撃を相手に当てることはなく、ステップやジェスチャーで相手をかく乱し、逃げ道をふさいで立往生させることをお互いが狙いあいます。

回転系の動きを基調としていて、ちょうど歯車がかみ合うように、相手の動きの中に絡んでいきます。相手に同調しながら、常に相手のほころびを探し、相手を「しとめる」タイミングを狙います。「しとめる」といっても、実際に技を当ててノックアウトするようなことはなく、相手がよけきれなければ寸止めをします。ここに男も女も、大人も子供もいっしょに楽しめる秘密があるのです。

相手の蹴りをよけきれなかったり、カベッサーダ(頭突き)やハステイラ(足払い)でバランスを崩されると「負け」です。この時、審判がいてゲームを分けるわけでもなければ、だれかがポイントをつけているわけでもありません。「しとめた」ほうは「よし」と思い、「しとめられた」ほうは「しまった」と思って、ゲームはそのまま続きます。

「鬼ごっことかくれんぼを同時に行っているような感じ」と言ったら、どうでしょう?何もない円の中。身を隠す場所などありません。しかも二人ともが鬼で、同時に子でもあります。こんなたとえ、知らない人には余計にチンプンカンプンですよね。しかしカポエイラ経験者なら「なるほど」と賛同を得られるのではないでしょうか。

カポエイラのホーダでは、何回「負け」てもチャンスはなくなりません。体勢を立て直してゲームは続きます。こけたら起きる。達磨が言ったという「七転び八起き」の精神です。これなんかもアピール・ポイントの一つですね。

ただゲームが途切れないので、カポエイラを初めて見る人には、二人が何を目指して動いているのか、何が決まり手なのかが分かりにくいという面もあります。民衆の遊戯文化として口伝えで受け継がれてきたカポエイラには紙に書かれたルールは存在しないのです(特定のグループ主催の競技大会を除く)。しかしここで想像してみてください。みなさんがポルトガル人の奴隷主だとして、いま、目の前で黒人たちがカポエイラをしています。これがあからさまな格闘術に見えないのは、カポエイラの生き残り戦略でもあったのです。

しかしながらゲームの「ルール」が分かって、少し目が慣れてくれば、「あっ、いま決まったな」「こっちが優勢だな」というのは、見ている観衆には分かってきます。もっとも、ときにはあまりにも駆け引きが微妙すぎて、経験の浅い人には何が起こったか分からないケースもあります。ちょうど英語の映画を見ていて、周囲が笑っているのに自分だけ笑えない、あんな感じです。しかしながらこの謎めいた駆け引き、白黒はっきりつけないグレーなところにこそカポエイラの魅力があるといえます。(つづく)