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カポエイラノススメ(8)

カポエイラ=(体育+物理学+心理学)×音楽+儀礼

これは私が考案したオリジナルの公式です。この公式の解説はまた別の機会に譲りますが、現時点で私が考えるカポエイラのイメージをシンプルに図式化してみました。「理を通す」と言うのは物理学の値を上げること、「冷静さ」は心理学の値を上げることを意味します。そうすることで運動が苦手で体育の値が低くても、それをカバーして総合点を高めることが可能です。

この冷静さと理を兼ね備えたいぶし銀のジョーゴをする男が、アンゴレイロス・ド・セルタゥン バウルー支部の代表コントラ・メストリ・チコです。ものごし穏やかで口数も少ない彼は、初めて会ったときは日系人だと思ったくらい東洋的な顔立ちなのも親近感を感じます。そんな彼が、微笑をたたえながら静かな足運びで大男たちを転がしていく様子は、押し弱民族に道を示してくれているようでとても心強く感じます。私の先生、コントラ・メストリ・シャンダゥンでさえもチコが相手となると「悪役」に見えてしまうのが笑えます(ひそかに私の心はチコを応援しています。これナイショ)!

チコの動きはとてもシンプルです。無印良品がジョーゴをプロデュースしたら、きっとこんなんになるだろうという無駄のなさ。素朴でオーガニックで、それでいて機能的なのです。機能的というのは「役に立つ」「実戦で使える」という意味です。こういうことが通用するからこそ、私たちは技を磨こうと思いますし、ビビラない、呑まれない肝力を養わねばと思えるのです。

逆に言えば、こういう点を念頭においてカポエイラの修練を積むことで、日常生活でも押しの強い人に対した時に落ち着いて対処できるようになれると私は考えています。小さいホーダ(pequena roda:カポエイラをするホーダ)での学びを大きいホーダ(grande roda:人生、社会生活)に活かす分かりやすい例ですね。この見方からすれば、カポエイラはビビリで引っ込み思案の方にこそお勧めできるということになるでしょう。カポエイラをすることを通して自分の性格を変えることができるとすれば、一つはこのような道筋であるだろうと思います。

ところで「押しの強い相手に押し負けない」技術は、何もブラジルのカポエイラを待つまでもなく、もっと私たちの身近にありました。なんでしょうか。はい、武道です。

小さい者が大きいものを、非力な者が強い者を、licuriがdendêを制する技術として、押しの弱い日本人が発達させたのが武道でした。武道は、力のない者が、技術と精神力で勝ちをおさめるという発想からスタートした世界に誇る日本の伝統文化です。できるだけ力を使わずに、時には相手の力を利用する形で投げたり、締めたりする技術の体系が柔術/柔道、合気道、少林寺拳法などの形に結晶しました。

しかし戦後、GHQの指導で武道はスポーツ化の道を選ばざるを得なくなります。そこでは性別、体重別にカテゴリー分けされ、限定的なルールの中で技術的な勝敗をつけるようになりました。そもそもは24時間365日いつなんどきでも臨戦態勢にあることが求められた武道は、今日では試合や大会に向けてピンポイントで調整すればいいだけの競技スポーツになってしまいました。

さらに“ヤバイ”ことは、武道が国際化していくなかで、「小よく大を制す」の秘伝が、もともとパワーがあり押しの強いネグロイド(≒黒人)、コーカソイド(≒白人)の人たちに学ばれてしまったことです。同じ技術レベルであればパワーがあるほうが有利なのは当然です。こうなるとなかなか日本人は勝てません。その兆候は柔道にも相撲にもすでに表れています。かつてのお家芸も国技も外国人に押され始めています。

柔道や合気道を生み出す母体となったのは伝統的な柔術でした。20世紀初頭、講道館柔道の前田光世がブラジルのベレンに伝えた柔道(柔術)がグレイシー一族によって大成され、今日、日本の若者がブラジル人に学びに海を渡るのは皮肉としか言いようがありません。ここにも日本の伝統が断絶し、外国に巻き返される構図があります。対戦相手を罵倒してメンチをきる日本人の格闘家と、試合を前に静かに山篭りをするヒクソン・グレイシーを見ると、どちらが「日本人」かと思えてきませんか。

おっと、下ごしらえがサイドディッシュになりかけていました。

つまりは日本の伝統文化であった(←過去形に注意)武道を学んでも、冷静さと理で押しの強い人に対処する術を会得しにくくなってきているということです。それを可能にするためには、競技スポーツと切り離した、本来的な意味での武道を取り戻す必要があるでしょう。

こういう歴史事情を踏まえて、我々が日本人としてブラジル文化であるカポエイラに取り組む意味を考えるとき、これまでとはまた別の見方ができるのではないでしょうか?(つづく)

 

カポエイラノススメ(7)

 

カポエイラのジョーゴは、見かけ以上に頭脳プレイであるという理由からしばしば「肉体を使ったチェス」とたとえられることがあります。ただチェスや将棋であれば、プロたちは数十手先を読みあいますが、身体ゲームであるカポエイラではさすがにそれは無理ですし、意味もありません。

実際にカポエイラで行うのは、こういうことです。いかなる攻撃であれ、攻撃技を出すときは、必ず相手に付け込まれる隙を与えるものですが、その自分の提供する隙を把握したうえで攻撃を出し、相手の反応をギリギリまで観察、分析するという態度です。ですからカポエイラでいう「読み」とは、当たるか外れるか五分五分の勘ではなく、実際の相手の動きを見極めた上での理性的な判断だということになります。

ここで大切になるのは冷静さ(calma)。クールな頭です。

「冷静であればあるほどカポエイラには有利だ」(Quanto mais calmo, é melhor para capoeirista.)とメストリ・パスチーニャは言いました。パスチーニャのレコードに収録されているせりふの中にありますよ。私が入門した当時のメストリ・ブラジリアのグループ・ロゴにも「冷静さは強者の美徳だ」(A calma é virtude dos fortes.)というフレーズが入っていました(あぁ、なつかしい~)。

ところでこの冷静さや理屈で力やスピードをカバーできるという点は、子供のころから運動があまり得意でなかった私には救いでした。強くなくても速くなくても楽しめるゲームだということ、力が弱い人にもスピードが遅い人にも居場所があるという点はカポエイラの強力なアピール・ポイントの一つです。前に書いたスロー・スポーツの流れに重なりますね。

そしてもうひとつ。これはだいぶ後になって気づいたことですが、この冷静さや理屈で力やスピードをカバーできるという特徴は、日本男児の(女性をめぐる)国際競争力の向上、いやいや男も女も一般的日本人の「国際」コミュニケーション力アップにも資するところ大なのです。これが今日のメインディッシュなので、その前に少しだけ下ごしらえを。

まず日本人の押しの弱さについて。

日本人とは何か、どこからやってきた民族で、どういう性格で、他国民と比較してどこがユニークなのか。こういうテーマについた論じた論考を日本人論といい、日本人は昔から日本人論が大好きです。これまで多くの作家、学者たちがそれぞれの視点から様々な日本人論を書いてきましたが、その比較的最近のものに齋藤孝『日本人は、なぜ世界一押しが弱いのか?』があります。詳しい内容は直接読んでいただくとして、自らの弱さを認める(ところから出発する)という視点が私にはとても新鮮でした。私自身のブラジル人とのかかわりの中でも、「あぁ自分は押しが弱いな」とつくづく情けない気持ちになってしまうことがあります。これまでは「ここでそこまでするか」と、逆にブラジル人の押しの強さに閉口し、あきれたふりをしていましたが、実際にはブラジル人のほうが世界標準で、私たち日本人が平均以下に「弱い」のだと認めてしまうのは、むしろほっとさせられます。

もう少しリアルにイメージしてみましょうか。多くは思い浮かびませんが、押しの強い人は日本人にもいます。カポエイラのゲームは対話だと前に書きましたが、たとえば漫才師なら横山やすし、歌手なら松山千春、やしきたかじん、政治家なら石原慎太郎のようなタイプとあなたが議論する様子をイメージしてみてください。対抗できますか?といっても若い人はピンと来ないでしょうね(笑)。最近では橋下徹・前大阪市長も同じタイプですし、もっとも分かりやすいのはドナルド・トランプ米大統領です。平均的な日本人なら、とてもかなわないと最初から戦意を失ってしまうのではないでしょうか。

こういう押しの強さ、弱さはカポエイラのジョーゴ(ゲーム)の中にも反映されます。ブラジル人のなかにはノリとテンションだけでゴリゴリ押してくる人も多く、その迫力に圧倒されてなにもできず寄り切られてしまうということも少なくないと思います。

カポエイラでは言葉が通じなくても分かり合えるんだ、そうだ非言語コミュニケーションなのだ、と語られます。これは確かにカポエイラの美点には違いありません。しかしコトバでないから対等かといったらそんなことはない。態度で押される、視線で殺される、身振り手振りで圧倒されるのです、我々は!

そこで私が拠り所にしたいのが冷静さと理です。理とは論理のこと。相手がいくら怖そうに見えるからといって、所詮は手が2本、足が2本の同じ人間です。蹴れば必ず一本足立ちになりますし、上げた足は必ず着地します。着地の瞬間、正しいタイミングで、正しい方向に、適切な力で足を払えば、床に転がるのは他の人間と同じです。たとえるならトランプのカードを出すのに、どんな恐ろしい顔をしようが、床に投げつけるような乱暴な出し方をしようが、カードの力には影響がないのに似ています。

勝敗をつけず、対話性が高く、なによりも音楽という共通の土俵を持つカポエイラでは、落ち着いて理を通すことで声の大きい人に押し負けない余地を残しています。PRIDEのリング上ではヴァンデルレイ・シウヴァの突進を止められなくても、カポエイラのホーダではまだなんとか対処は可能です(理屈のうえでは・・・)。というのも儀礼性、音楽性を尊重することが大前提とされるカポエイラでは、ルール無用の「なんでもあり」に歯止めがかかるからです。一般的な競技スポーツとの違いがこの辺りに表れてきますね。(つづく)

カポエイラノススメ(6)

「テレビを見ながら勉強してはいけません」

「おしゃべりしながら食べちゃだめよ」

「運転するときはよそ見しないこと」。

子供のころを振り返ると、学校にせよ家庭にせよ私たちはとかくひとつのことに集中するよう言われてきました。何かをするときは、そのことだけに集中することがよしとされ、同時に他のことをしながらすることはよくないと教えられてきたものです。もちろんこれはこれで意味がありますし、スマホを操作しながらの運転などは絶対に禁止されるべきです。

ところがカポエイラにおいては、2つ、3つのことを同時に進める能力、複数のことに同時に注意を払う力が求められます。むしろその力を伸ばすために日々の練習を重ねているといっても過言ではないのです。こういう能力のことを専門用語でなんと言うのでしょうか。きっときちんとした名前があるのだろうと思いますが、私は勝手に「ながら力」と呼んでいます。

日本でカポエイラというと、どうしても動きの部分が最初に注目されがちですが、その背後には楽器を演奏する人がいて、歌をリードする人がいて、コーラスで答えるホーダを取り囲む人たちがいます。ホーダ(カポエイラの行われる円)はあたかも儀礼の有機体として、それぞれの構成要素がお互いに連関しながら、全体として調和を保ちつつ進行します。しかもその進行方向には筋書きがなく、ジャズのセッションさながらに即興的に展開していきます。

このような筋書きのない即興儀礼有機体としてのホーダでは、構成員は常に全体の行き先にアンテナを張りつつ、その変化に当意即妙に対応することが求められます。「変化に対応する」という言い方をすると、なんとなく受身で対応が後手に回るような印象を持ちますが、実際はそうではありません。なぜなら一構成員である私の対応もまた全体の進む方向に影響を与えるからです。ここにも対話性が見られますね。構成員一人ひとりの個性、判断、行動が全体を形作り、同時に一人ひとりが全体の反応をフィードバックしています。全体から情報をもらいながら、部分も発信する。その相互作用の総体がホーダです。カポエイラのホーダは紙の楽譜に固定された化石ではありません。それは刻々と変化し続ける運動体であり、生き物、生命、ライブなのです。

話がホーダの説明にそれているように思えますが、必要な解説でした。つまりは、そのホーダの中で大事になるのが「ながら力」だということがお伝えしたいことだからです。

おそらく私の上の解説のしかたから、バテリア(カポエイラの楽器編成)の楽器間のやり取り、即興の掛け合いをみなさんはイメージされていると思いますが、実際のホーダではもっと複合的な「ながら力」が必要になります。

たとえば楽器の演奏者に注目してみましょう。彼(彼女)は楽器を弾きながらコーラスで答えます。ピアノでもドラムでも、どんな楽器でもそうですが、手足でリズムを刻みながら、口で歌を歌うというのは思いのほか難しいものです。さらにカポエイラの中では前触れもなく曲目が変わります。そういう場合にボーッとしていると、前の曲のコーラスをうっかり歌い続けてしまいます。そういうことがないように演奏者は、弾きながら、歌いながらリーダーの選曲にたえず注意を向け続けています。

ジョーゴのプレイヤーであれば、伴奏に合わせてステップを踏みながら相手と攻防の「対話」をします。自分の動きを音楽とコネクトすることはカポエイラの中で最も重要なことです。さらにカポエイラの歌はたんなるBGMではありません。そのときの状況に応じた歌い手(多くの場合メストリかそのホーダの中のベテランカポエイリスタ)のメッセージが込められていることがあります。プレイヤーはそれを理解して、ジョーゴに反映させることが求められます。ここでもボーッと聞き流していると、メッセージを受け取りそびれてしまうでしょう。ですからカポエイリスタは、音楽を聴きながらジョーゴをすると同時に、ジョーゴをしながら音楽を聞くことにも同じ程度の比重で注意を払う必要があるのです。

ホーダを指揮するメストリの役割はさらに複雑です。ゲームの状況、ホーダの状況に応じて適切な歌をリードします。ジョーゴが荒れ模様のときはシャマーダ(ビリンバウの特定のリズム)でプレイヤーを仲裁することもあります。歌をリードしながら、バテリア全体の調和に気を配ります。ホーダを取り囲んでいる人たちの振る舞いやコーラスにも注意を払います。さらにはホーダの外の状況変化、警察の取り締まり、酔っ払いのカラミ、ライバル・カポエイリスタの接近などにも注意を怠りません。いずれもあることをしながら、同時に他のことにも気を配る高度な「ながら力」が求められます。

刻々と移り変わる複数の情報ソースを瞬時に処理する「ながら力」は、練習により誰でも確実に向上させることができます。カポエイラでは、楽しみながら練習しているうちにいつのまにか「ながら力」が身についてしまいます。

カポエイラをすると『ながら力』がつくよ!これまで意識していなかった方は、ぜひアピールポイントの一つにしてみてはいかがでしょうか。(つづく)

カポエイラノススメ(5)

「相手を思いやりながら自分の実力をアピールできる」。技を直接相手に当てることなく、勝敗も明確につけないジョーゴ(カポエイラのゲーム)の特徴から私が考えたキャッチフレーズです。これはブラジルから帰国後もチラシの文言に、イベントでの冒頭説明に、メディアの取材を受けた時のつかみにと、いろいろアレンジを加えて使ってきました。

メストリ・ジョアン・ピケーノは言います。「相手がよけられないときは足にブレーキをかけるのじゃ。蹴りたくなかったから蹴らなかったというのは、見てる人には分かるじゃろう」。見てる人はちゃんと見てる。仮に見ていないとしてもそれはそれでいいじゃないか。このゆとり感が私は好きです。

「カポエイラは微笑みながら戦うアートだ」。メストリ・アナンジ・ダス・アレイアスが言うとこうなります。これも素敵ですね。ちなみにメストリ・アナンジは、日本で言えば岩波新書のようなポケット版の人気シリーズで『カポエイラとは何か?』という本を書いた人です。初版は1983年で、書店に行ってもカポエイラ関係の本がほぼまったくなかった当時、この本は一般のブラジル人のカポエイラ・イメージ形成にとても大きな影響力を持ちました。私が初めてブラジルの地を踏んだ95年は、大きな本屋にはまだ並んでいましたが、その後しばらくして絶版になっています。

話を元に戻します。

私たちが誇りうるカポエイラの魅力、一般的な競技スポーツと比較したときのカポエイラのユニークさは、競争と協調が共存している点にあると思います。「カポエイラではA vs Bと言わず、A com Bと言うのだ」というのは、私はメストリ・カミーザから最初に聞きました。日本語で言えば「A対B」と言わず「AとB」と言うのだ、という意味になります。

comは英語のwithにあたり、「ともに、いっしょに」という意味です。つまりカポエイラのゲームは、相手に対抗、敵対するのではなく、相手といっしょに創りあげるものなのだという考え方が込められています。ポルトガル語が分かる人には、contraでなくcomだと言えば分かりやすいでしょう。英語で言う場合はagainstではなくwithだと言えば分かってもらいやすいと思います。「相手といっしょに」というのがキーワードですから、ましてsem(=without)の考え方、つまり相手と関係なく自分のしたい動きだけを繰り出すというのはカポエイラのエッセンスを台無しにしていることになります。

日本の私たちの暮らしは、常に競争をあおられています。学校で言えば、クラスメートは友人であると同時にライバルです。受験や就職で限られた枠を競うときには、情け無用で相手を蹴落とさなければなりません。ようやく就職したとしても、昇進のスピード、給料の金額、家を買うタイミングと競争は果てしなく続きます。常に他人と比較することでしか自分の価値を見定められない、この慢性的な不安から逃れるのは、とかく「空気」に支配されがちな日本社会で暮らしている以上、なかなか簡単なことではありません。

子供たちのスポーツの世界も例外ではないですね。部活にせよ地域のクラブチームにせよ、あまりに競技化されすぎていて、勝利第一主義に傾いているようです。うちも娘がバスケ、息子がドッジのチームに参加していますが、低学年でも上手な子は上級生を追い抜いてレギュラーになります。実力主義の世界では当然だし、実社会もそうなのですから、スポーツ活動を通じて子供たちは現実のシビアさを学んでいると見れなくはありません。

しかしながらいやでも世の中は競争に満ちているのですから、スポーツ(遊戯)の世界くらいは、勝敗に固執せず、もっとおおらかな気持ちで楽しめればいい気もします。そういう視点から近年注目を集めているのが、ニュースポーツ、スロースポーツと呼ばれる新しい種目たちです。スポーツ吹矢とかマレットゴルフなど、名前くらいは耳にしたことないでしょうか。それらは競争よりも協働に重きをおいた斬新なルールで、子供からお年寄りまで楽しめることを大切にしています。

ある意味カポエイラもこの路線に沿ったものだといえると思います。競争と協調の絶妙なバランス。勝ち負けをはっきりつけず、そもそも試合という形式を取らないカポエイラは、メダルやトロフィーを目指して取り組むスポーツではありません。逆に言えば、競争社会に疲れた人たちのお眼鏡にかなったからこそ、すごい勢いで世界160ヶ国以上に広まっていったのだと言えるでしょう。

相手を思いやりながら自分の実力をアピールできるカポエイラは、ほころびを見せ始めた資本主義社会の、つまりは「競争を降りて、仲良く楽しもうよ」という時代の新しい要請にぴったりマッチしているんですね。(つづく)

カポエイラノススメ(4)

メストリ・ブラジリアのアカデミア(道場)に入門して最初に教えられたことは、O jogo de capoeira é pergunta e resposta(カポエイラのゲームは質問と返答だ)ということでした。

メストリ・ブラジリアは、カポエイラの攻防の駆け引きをおしゃべりにたとえて説明します。たとえば相手の蹴りは私に対する問いかけです。こう来たらどうする?という相手からの質問です。それに対して、下がってよけるか、伏せてよけるか、あるいはジンガ(カポエイラの基本ステップ)のなかで無効化するか、こちらにもいくつかの返答の仕方があります。こちらの返答はそのまま相手に対する質問になり、相手の返答がこちらへの再質問になり、というかたちでゲームは進行していきます。

返答の仕方にもいろいろありますね。誠実に対応することもあれば、あえてはぐらかすようなやり方をすることもあります。そのお互いの返答の仕方によってゲームの雰囲気が変わってきます。気心の知れたアミーゴとのジョーゴ(カポエイラのゲーム)から、初対面の人が名刺交換するようなジョーゴ、あこがれの先生とのドキドキ・ジョーゴ、武蔵と小次郎のような宿命のライバル対決、漫才さながらのコミカルなものまで、100人いれば100通りのジョーゴが存在します。これも私たちの会話に、あいさつから、対話、語らい、ディベート、議論、口論、無視まで、相手や状況によって様々な位相があるのに似ています。

カポエイラがコミュニケーション力の向上に役立つと思える理由の一つは、意図や機嫌の分からない相手を前に、「対話」を成立させようとする努力が求められる点にあります。意図というのは、相手がこのジョーゴに何を求めているかということです。練習してきたアクロバットを披露したいとウズウズしている相手は、往々にしてこちらの問いかけには耳を貸さず、自分の言いたいことだけを言うチャンスを狙っています。アグレッシブなジョーゴが好きな人は、目の前に現れるすべてのスキにつけこんで、とにかく相手を倒すことに執着します。逆に荒々しいことを極力避けたい人は、笑顔を振りまいて、円満、友好ムードを演出するでしょう。

「相手がどんなタイプのジョーゴを望んでいるのか、ホーダに入ったらまずそれを見抜け」というのもメストリ・ブラジリアの教えです。もちろん「どんなジョーゴをしたいですか」と言葉で聞くわけにもいかないので、実際に攻防をする中で感じ取っていくわけです。あれです、KY。すでに死語でしょうか。空気を読むというやつです。それが自分の意図と違っていたとしても、うまく折り合いをつけて、最後までジョーゴをしきる必要があります。その中で意思疎通とまではいかなくても、相手の術中に落ちずに自分が主導権を握れるよう工夫します。

雰囲気の違いをイメージするために、あえて乱暴に切ってしまいましょう。

たとえば華麗なアクロバットで観衆の喝さいを浴びたいと考えている人とは、なかなか絡みにくいということが起こります。相手にそもそもこちらの質問を尊重する気がなく、あらゆる余白で宙返りすることだけを狙っているのですから、こちらがあまりに慎重に立ち回れば、相手の引き立て役に終わることもしばしばです。少なくともカポエイラをよく知らない観衆には、相手のほうが上手だと思われてしまうでしょう。一般にコンテンポラニアと言われるスタイルの人とアンゴーラの人がジョーゴをするときに起きがちな状況です。ではどうするか?ひとつは相手が飛んでいる間、あるいは着地するタイミングを狙ってカウンターを合わせることができます。「鹿は跳ねるから撃たれるんだ」とはメストリ・プリーニオから聞いたような気がします。相手がそれをかわせないとしたら、アクロバットのタイミングがよくなかったということになりますし、こちらは相手がきちんと見えているということになりますし、それは観衆にも伝わります。

もちろん二人ともアクロバット系どうしの場合は万事解決です。そういう場合には、オレも邪魔しないからオマエも邪魔するなよ、との暗黙の了解があったりしますので、カウンターなどの心配をすることもなく、最も見栄えのするタイミングで気兼ねなくアクロバット合戦を披露することができます。もちろんこれは悪いことでも間違ったことでもありません。両者の意図が合致すれば、理屈抜きにハッピーなジョーゴができるということです。

ただ楽なことが困難なことより常に楽しいとも限りませんよね。やはり未知の相手とお互いの懐を探り合いながら対話を成立させるべく交渉する。それができた(と感じられた)ときにわいてくる充実感とか自信は、手の内を知った相手とストレス・フリーなジョーゴをするときの楽しさに勝るとも劣らないものがあります。気のおけない友人とのおしゃべりが楽しいのは言うまでもありませんが、なんとなく合わないなと思っていた人と思いがけず会話がはずんだり、難しいと思っていた相手を説得できたときの気分を思い出してみてください。それもまた別の喜びですよね!

ジョーゴ・ジ・デントロ(jogo de dentro)という言葉があります。本来はカポエイラのジョーゴの本質を表す言葉でしたが、今日ではさまざまなスタイルの変容を経て、とくにカポエイラ・アンゴーラの特徴を表す言葉になっています。デントロというのは、英語で言うインサイド(inside)で、内部とか内側という意味。つまりジョーゴ・ジ・デントロというと、相手の中へ中へ絡んでいくタイプのジョーゴを意味します。

私の個人的な考えでは、カポエイラの本質、醍醐味はこれです。ジョーゴ・ジ・デントロ。相手の中に入る。逃げない。相手の意図を読み、理解を試み、自分の主張もする。そこでの立ち回りを鍛えることが、日常生活の中でのコミュニケーション力の向上にも役立つと考えています。(つづく)

 

 

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