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ブログ ☆★Roda de Papoeira★☆

カポエイラ探検隊2020 始まります!

今年もカポエイラ探検隊始まります!

毎年2月の終わりから3月いっぱい、私自身のカポエイラの充電にブラジルに行っています。バイーアの田舎に古いメストリたちを訪ね、昔のカポエイラの話を聞き書きしたり、どんどん台頭してくる若者たちとジョーゴして「こりゃもっと頑張らなくては」と刺激を受けたり、新しく出版された本や論文を集めたり、文字通り私のカポエイラをアップデートし、上書きする旅です。

というわけで今は成田で、6時間の待ち。このあとカタール航空のドーハ経由でサンパウロに向かいます。

向こうからもいろいろな体験、感じたこと、考えたことなどを皆さんとシェアしていければと思います。

それにしても空港はマスクの人一色。普段日本人のマスクを奇異だと笑う外国人たちも今回ばかりはみなマスク姿です。薬局ではどこもマスク売り切れなのに、ちゃんといきわたっているところに感動しました。

感じるジョーゴ



息を呑むジョーゴ・ジ・デントロ。触れれば切れるような鋭いハボ・ジ・アハイア。時折こぼれる笑み。

絵画でも音楽でもスポーツでも作家や選手の生い立ちや制作過程の苦労話などを知ったうえで見ると、全く違う角度から味わえるものですが、私はこのタイミングでの、この師弟のジョーゴを特別な感慨を持って見ました。たまたまメストリ・クラウジオともコントラ・メストリ・シャンダゥンとも一昨日WhatAppで話したばかりでした。

ここではあえて楽屋の話はしませんが、自分が今一番苦手な相手とジョーゴをする状況を想像してみましょう。ここでいう苦手というのは、技術的なレベルのやりにくさということではなくて、人間関係、感情的なレベルの話で、顔を見たくないとか、口をききたくないという意味の苦手です。私も具体的な人の顔を思い浮かべていろいろ想像してみました。当然負けたくないという気持ちが先にたつでしょうが、緊張した表情は出したくない、あまりガツガツ行くのも大人げない、かといってお人よしになってもつけ込まれる。自分にも相手にもそれぞれに背負うものがあります。そのときどんな笑顔を浮かべながらジョーゴができるだろうか。最初に握手してから最後にハグするまで、自分がどんな表情でジョーゴをしているか。それが自分のマンジンガ・レベルです。でもここに最高のお手本を見た気がします。まさに2頭のライオンどうしのジョーゴ。学ぶべきはハボ・ジ・アハイアよりも、両雄の胆の強さとマンジンガです。

カポエイラは路上で生まれた。少ない動きしか知らなくてもマリーシアがあれば

「自分も路上でカポエイラを始めた。ずっと長い間路上でカポエイラをした。当時はそれぞれが自分の体のできることをしたし、ケンカもあった。時には少しの動きしか知らない者が、多くの動きを知っているものに勝ったものだ。いくらたくさんの動きができてもマリーシアに欠けていたからだ。カポエイラの中の抜け目のなさが足りなかったのだ。」

「多くの人が、カポエイラの中にアクロバットなどなかったと言うが、それは常にあった。昔からずっと。むしろそれらすべてがカポエイラの基盤なのだ。その基盤はどこにあったか?路上のカポエイラの中だ。すべてのカポエイラは路上から始まっている。カポエイラの伝統は路上からのものだ。カポエイラは路上で生まれたのであって、道場や家の中やどこかの室内で生まれたのではない。」

(映像内のコメントから)

1974年のサルヴァドール、メルカード・モデロのホーダの映像です。メストリ・ガジェ、故メストリ・ドイス・ジ・オウロの切れ切れのジョーゴが見られます。

 

カポエイラは団体種目



コントラ・メストリ・シャンダゥンが帰国して1週間たちますが、滞在中「ほとんどのメンバーにbase(土台)がない」というお叱りを受けました。そこであらためて基礎固めを徹底しようということで、ベーシックな動き、楽器や歌の基本中の基本を見直しし始めています。

そこで意識の高い人たちはとっくにしていることですが、メンバー全員に練習ノートをつけることを提案したしだいです。その日にやった練習、2人組みのものなら動きの組み合わせ、気をつけるポイント、歌の歌詞やその意味などを書き留めていくわけですね。ただ漫然と練習しているだけでは、また次のときに動きの順番も思い出せない、同じ歌の歌詞を繰り返しホワイトボードに書かなければいけないということになります。要は「確実に積み重ねていきたい」という学ぶ人の気持ちしだいなのですが、それをサポートする手段として毎回ノートをつけるのはとてもいいと思います。目的は忘れないこと、刻み込んでいくこと、ですね。

ところで先日メンバーの一人がとてもいいことを言っていました。毎回の練習の後、今日は自分のために何を練習したか、グループのために何を練習したかを振り返るのが大事だと思うとのことでした。カポエイラを始めた年月で言えばまだ初心者と見なされる方ですが、この人はカポエイラのエッセンスを理解してきているなと、とても感心させられました。大事なのは後半ですね。いうまでもなく練習のすべては自分のためですが、グループに貢献するという視点で練習の取り組み方を見直してみるのはとても重要です。この視点を持つと、自分の都合で簡単に練習を休むことさえ憚られるようになるでしょう。

あるグループが取り仕切るホーダのよしあしは、そのグループの総合的な力の反映です。バテリアのクオリティー、参加者の表情、ビリンバウのアラーミが切れたときの対処、楽器の交代の仕方などなど、技術的なレベル、儀礼的な知識がすべて問われます。コントラ・メストリ・シャンダゥンが「バテリアはそのグループの名刺だ」というのはこのことです。その意味でカポエイラは「団体種目」なんですね。ポルトガル語では「Capoeira é coletiva.」という言い方をします。120点のずば抜けたカポエイリスタが2、3人いるより、全員が80点のほうが、全体としていいホーダができるのはそのためです。

まだ始めていない人は、明日から練習ノート、ぜひ導入してみませんか。100円の投資のみかえりはプライスレスです!その中で「グループのため」という視点でも練習を振り返ってみてください。

世直しの道具としてのカポエイラ



日本でカポエイラという用語がどのように説明されているか。19の辞書、事典に当たって調べた前田フェルナンドさんの興味深い記事(https://japoeirando.blogspot.com/2019/08/definicao-do-verbete-capoeira-nos.html)を昨日読みました。それによると「格闘技」とするものが最も多く、続いて「ダンス」「格闘技&ダンス」の順に続くそうです。これは日本人一般の、ましてや日本人カポエイリスタのカポエイラに対する見方を反映したものではないとフェルナンドさんも断っていますが、平均的な日本人のカポエイラに対するイメージはよくてこの程度だろうと思います。

私は8つの大学で講師をしているのですが、毎年自己紹介のときに、カポエイラって知ってますかと学生に問いかけます。しかし知っていると手を上げる人はごくわずかで、聞いたことはあるけどどういうものかは分からないという人がチラホラ。まったく聞いたこともないという学生が実に半分以上なんですね。大学1年生でですよ。こんな実情ですから、辞典類に書かれている内容は「正しいもの」として一定の社会的影響力を持つのは確かだろうと思います。

なんかちょっと寂しいですよね。私たちカポエイリスタが味わっている豊かなカポエイラの世界をもう少し正確に世の中に知って欲しいと思うのは私だけでしょうか。しかしそれはひとえに私たちカポエイリスタの責任です。私たちが日ごろからカポエイラと多元的な付き合い方をしていくことが、ゆくゆくは社会のカポエイラに対する見方を変えていくのだと思います。実際それ以外ないですよね。

ところでカポエイラがダンスか格闘技か、あるいはその両方の混ざったものかという見方は、いずれもカポエイラの身体運動としての側面に注目した区分です。逆に言えば日本社会のカポエイラへのまなざしはいまだにそういうモノサシしか持っていないということです。しかしすこし深くカポエイラを修練した人であれば、その関心は精神性のほうへ向かうでしょう。そうなると芸術だ、哲学だ、いやいやコミュニケーション・ツールでもある、という見方が続くのではないでしょうか。しかしながら私が個人的に関心があって、日本のカポエイリスタにも広めたいなぁと考えている視点はもうひとつ先にあります。それはカポエイラの持つ政治性、社会性に注目したときに浮かび上がる「社会変革の手段」という見方です。もっと平たく、世直しの道具と呼んでもいいと思います。

えっ、何を急に、と驚きましたか。おそらく少なくない人たちは「そりゃそうだよね」と同意していただいていると思います。

言うまでもないことですが、社会のすべての問題を解決できるほどカポエイラは万能ではありません。カポエイラが背負う歴史をふまえて得意な分野は、人種的平等とか文化的多様性の尊重といった分野です。しかしながらこの問題はあまりにも根源的であるために、この問題について勉強すれば芋づる式に社会のあらゆる問題が一緒についてきますし、この問題を少しでもいい方向に変えて行ければ、他人を幸せにできるし、自分も幸せになれるという性質を持った問題であります。

たとえばカポエイラを通して次のような問題を考えていくことができます。カポエイラはユネスコの世界遺産に登録されるほど、その価値が国際的に高く評価されるようになったにもかかわらず、どうしてそのオリジナルの担い手たるブラジルの黒人が置かれている状況は劣悪なままなのか。ブラジル国内でも会員が何万人もいる大きなグループのトップがことごとく白人のメストリたちに占められているのはどうしてか。どうして大学のカポエイラ・サークルには白人が多く、ファヴェーラ(スラム街)のグループには黒人が多いのか。

このような問題について知識を増やし、あるべき理想や直面する課題をみんなで話し合ってみることがとても重要です。その中で黒人の子どもたちは自尊感情を高めることができるでしょうし、白人は自らの無意識に潜んでいた偏見を反省するきっかけになるでしょう。私たち日本人は教科書の中のエピソードとしてではなく、敬愛するメストリや仲間たちの顔を思い浮かべながら、自分に関係のある問題として認識できるでしょう。その先にはカポエイラをひとつの「人種(raça)」とした連帯、協働が見えてくるかもしれません。

私たちはカポエイラという地球の反対側の文化について学びながら、最終的にその視線を足下の問題、すなわち女性、朝鮮人、部落、アイヌ民族、LGBT、障がい者といった国内のさまざまなマイノリティー問題に向けることができます。それがカポエイラを社会に活かすことであり、カポエイリスタとしてカポエイラを生きることにつながります。ここに私たちがカポエイラを学ぶ大きな意義を見出せると思います。

ここまで読んで、なんだ、自分はそんな小難しいことのためにカポエイラやってるんじゃないよ、とお考えのみなさん、ご安心を。あなたはひとつも間違ってはいません。ただサッカーとか空手とかピアノとか習字とか、いろいろな習い事、種目のひとつとしてカポエイラの特徴を捉えようという場合、カポエイラはとても多面的で、さまざまな関心を持つ人々の求めに応えられるだけの間口の広さと奥行きの深さを持っているということ。とくにカポエイラが生み出された文脈、そのオリジナルの担い手たちが置かれた現状は非常に政治的で、どういう取り組み方をしても、その政治性から完全に自由にはなれないということは認めないわけにはいかないのです。

たとえば歌っている歌詞を訳してみてください。「Vou dizer ao meu sinho(ご主人様に報告しよう)」「Olha la o nego(あの黒人を見ろ)」、ほら、お分かりでしょう。ポルトガル語がよく分からないというみなさんも、知らないうちにそういう内容を大声で歌っていたんです。皆さんの関心がたとえそこにフォーカスされていないとしても、カポエイラにはあらかじめそういう問題が内蔵されているわけです。ですからたとえバク転ができるようになりたいからカポエイラを始めた人にも、その修練の過程で政治的な問題を考えるさまざまな糸口が自然に提供されているんですね。

キリがないので、最初の話に戻ります。日本の辞書のカポエイラの説明に、ダンス、格闘技以外の多様な説明を加えさせるのは私たちカポエイリスタの責任です。この先5年後、10年後の説明がより豊かなものになっていますように。祈るだけでなく、動いていきましょう!

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