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ブログ ☆★Roda de Papoeira★☆

あなたは疲れていても練習に行くのだ!



「たとえビーチに人がいなくても太陽はそこにいて照らしていなくてはならない」

前回の「カプー20周年に思う」の記事で、このメストリ・プリーニオの言葉に結構反響をいただきました。とくに指導者の方々ですね。カポエイリスタではなく、サンバをしているという方からも気持ちを代弁してくれたとのコメントをいただきました。

しかし実際のところ指導者も生徒もカポエイラに対する情熱も取り組むペースもそれぞれなんですよね。当たり前のことです。たとえ気持ちがあっても仕事や家の事情がそれを許さないということだってもちろん出てくるわけです。それを杓子定規に「おまえにとってカポエイラの優先度はその程度か」と切り捨てるのは、私たち指導する者の傲慢だと思います。

それにしても、です。

では、生徒は自分の気が向いたときだけ練習に顔を出すだけでいいのか。いや、それだけでもないよ、というのが今日の言いたいことです。そういう意味で、案外見落とされがちな視点を一つだけ確認しておきたいと思います。

それは、カポエイラの練習に行くということは、その人本人が上達するという目的以外に、そこに集まる仲間たちに協力するという側面があるという視点です。たき火に薪が一本余分にくべられるようなイメージですね。とくにうちのような少人数のグループでは、一人の存在というのがものすごく大きな意味を持ちます。「数は力なり」とは言ったもので、参加者が一人増えることで場のエネルギーは数倍にアップします。その人が参加することで、練習相手が一人増え、バテリアの楽器が一つ増え、それによってジョーゴできる人が一人増えるわけです。

つまり生徒としては、自分が練習に行くことは自分のためであることは言うまでもなく、同時にグループに貢献するためでもあると言えることになります。「自分のためだけじゃないんだ、仲間のためでもあるんだ」という視点を持つことで、テンションの低い日も易きに流れる気持ちに歯止めをかけられるかもしれません。

同じ考え方は楽器の練習にも当てはめることができます。私を含めておそらくほとんどの方は、当初、動きに関心を持ってカポエイラを始められたと思います。では音楽に関心がないからビリンバウの練習をやらなくていいかといえば、そうもいかないわけですね。その最大の理由は、その人が楽器を交代できるようになることで、ジョーゴを楽しめる仲間が一人増えるということです。自分がビリンバウを交代できるようになれば、みんなが満遍なくジョーゴを楽しめる状態に、グループ全体が一歩近づけるというわけです。カポエイラにおける楽器の練習は、個人の好き嫌いに任せられるものではなく、メンバーに対する思いやり、グループに対する貢献という視点も忘れられてはいけないと思います。

おまけですが、私たちアンゴレイロス・ド・インテリオールで練習の最初と最後に唱えるフレーズがあります。

Eu seguro sua mão na minha(私はあなたの手を取ります)

para que juntos possamos fazer(みんなでいっしょにするために)

tudo aquilo que não podemos fazer sozinhos(ひとりではできない全てのことを)

このフレーズを全員で手をつないで唱えてから練習が始まります。ちょっと素敵じゃないですか?(ちょっぴり自慢)。カポエイラって「集団競技」なんですね!

カポエイラとカポエイリスタ

WhatsAppで回ってきた作者不詳のテキストですが、私たち自身を振り返る助けになると思ったので、訳して紹介します。

誰もが自分のなかに両方の要素のあるのを見ると思います。きっと大事なのは自分が何を目指して、何のためにカポエイラをしているのかを分かっていることですね。

私が一番ハッとさせられたのは次のフレーズでした。朝からグループの仲間、メストリたち、カポエイラをさせてくれている家族に感謝です!

O capoeira não tem identidade , tem nome.(カポエイラは、有名ではあるがアイデンティティーがない。)
O capoeirista tem família.(カポエイリスタは、ファミリーを持っている。

あなたは何を思いましたか?

カポエイラは、すべてを知ったつもりでいる。
カポエイリスタは、常に学び続けている。

カポエイラは、有名ではあるがアイデンティティーがない。
カポエイリスタは、ファミリーを持っている。

カポエイラは、練習せずにホーダばかり渡り歩く。
カポエイリスタは、誰よりも早く練習に行く。

カポエイラは、自分だけのために学ぶ。
カポエイリスタは、分かち合うために学ぶ。

カポエイラは、アイドルはいるがメストリを持たない。
カポエイリスタは、父親、友人としてメストリを持つ。

カポエイラは、自分に有益な行動をとる。
カポエイリスタは、グループにとって有益な選択をする。

カポエイラは、楽器を弾いて歌を歌う。
カポエイリスタは、ホーダのエネルギーに応じてリズムの緩急をつけられる。

カポエイラは、気が向いたときに参加する。
カポエイリスタは、いつもカポエイラの中にいる。

カポエイラは、グループやメストリの欠点ばかりを批判する。
カポエイリスタは、メストリを理解しようと努め、協力し、学ぼうとする。

カポエイラは、最後まで一人のカポエイラにすぎない。
カポエイリスタは、いつかメストリになる。

カプー20周年に思う

昨日は月さん率いるカプー・ジャポン20周年記念のバチザードに行った。おそらく私と同じ感慨を抱いて昨日のホーダを見つめた人はそう多くはないだろう。一口に20年というが、20年といえば、赤ん坊が成人するまでの月日であり、私がカポエイラを始めた当時(1995年)、何の根拠か分からないが生徒がメストリになるには20年かかるといわれていた、そういう年月である。

カポエイラを続けるのはレジスタンス(resistência)だ。その起源から今日にいたるまで、奴隷主から鞭打たれ、警察に拘留され、社会の偏見にさらされ、その歴史を振り返れば、どの時代にもカポエイラを絶やそう、止めさせようという暴力に晒されてきた。それはスポーツ、習い事になった今日でも形を変えて残っている。仕事の疲れ、バイト、他の習い事、家の事情、暑さ、寒さなど、カポエイラの練習に向かう足を止めさせる理由はいたるところに転がっている。その意味では、一人の人間が自分だけのために自分のペースでカポエイラを20年続けるだけでも十分に偉業なのだ。

しかしグループを20年に渡って維持する指導者、リーダーの払う努力、犠牲はまったく別の次元である。生徒にとって、カポエイラは行きたいときに行けばいい場であるが、指導する人間にとってはそうではない。いかに気分が乗らなくても、雨でも雪でもその場に行かなくてはならない。さらには毎月の場所取りの抽選、楽器運びなど裏方の仕事もあるだろう。昔メストリ・プリーニオに言われた言葉が忘れられない。「たとえビーチに人がいなくても、太陽はそこを照らしてなくてはならない」。まさにその通り。指導する人間は「太陽」的であることが求められる。太陽は毎日昇って当たり前。世界を照らして当たり前。たとえ曇って見えないときも、その裏でいつも通り輝いているわけで、別に休んでいるわけではないのだ。聞けば誰もが「ありがたい」と言うが、普段はとりわけ誰にも気づかれにくいそういう役割である。

今日はこんなことをやろう、と前の日から練習のネタを準備しておいて、いさんでスタジオの扉を開けたら誰もいない。そのときの気持ちを生徒が想像するのは難しい。それでも指導者は次回も練習に向かう。指導者にも家族はある。分担すべき家事もあれば、話を聞いてあげるべき妻もいれば、遊んで欲しい子供たちもいる。生徒は休めるが、指導者は休めない。決定的な立場の違いがそこにある。

カプーは20年続いた。では月さんと同世代の人が何人残っているか?もちろん去った人を責めるつもりはまったくない。ただ残った人を認めたいだけである。何人いるか?数えられる人は数えてみて欲しい。何人いるか?

「おめでとうございます」「お疲れ様でした」と人は言い、実際それ以外の言葉をかけるのも難しいが、「さまざまなことx20年」の重みに実感を持って思いをはせられる人は多くはないだろう。それは親の思い子知らずで、まさに親の役割と同じなのだ。子は自分が親になって初めて親のありがたみが分かるという。しかし生徒のほとんどは指導者になることはない。

私もふだん特別濃密な付き合いが月さんとあるわけではないが、これまでひとつのカポエイラグループを、何があっても投げ出さずに切り盛りしてきたという一点をもって、他の誰にも感じえない「同志」の意識を一方的に感じている。心強いことに日本各地には地道に自分の役割を果たしている「月さん」たちが散らばっている。彼らこそがもう30年経ったときに日本のカポエイラの先駆者(ancestrais)として回顧されることになるだろう。

カポエイラはフェスタ。Sim。楽しいスポーツ。Sim。多くの人にとってはsim。しかしその場を在らしめている人間にとっては、それだけではない。カポエイラはレジスタンス。日々戦いの連続なのだ。

ではそういう戦士(guerreiro)たちと共闘する方法は?もちろんある。でもそれは生徒の皆さん、ご自分で考えてみてください。カプーの次の10年、日本のカポエイラの未来は、皆さんのあり方にかかっているわけですから。

カポエイラノススメ11


ほぼ1か月半ぶりの「カポエイラノススメ」です。その間、メストリ・モアの件や、私たちのグループのカポエイラ・フェスタ「ヴァジアンド2018」での発表準備(『コンテンポラニアのアンゴーラとアンゴレイロのアンゴーラの違いについて』というテーマで発表しました)があったりで、記事は上げていたものの、シリーズからは遠ざかっていました。

というわけで、ここから今日の本題です。

みなさんは戸塚啓『マリーシア』(光文社)という本はすでにお読みでしょうか?ただでさえブラジル関連の書籍が少ない中で、760円で買える新書はお得で貴重な情報源ですよ。

カポエイリスタなら初めて聞くということはないと思いますが、マリーシア(malícia)とは、マンジンガやマランドラージェン、ジェイチーニョと並んでブラジル人をブラジル人たらしめている資質としてあげられる要素です。機転を利かせて要領よく立ち回る、規則があっても柔軟な発想でその抜け道を探るような行為をマリーシアと呼んでいます。マンジンガとのかかわりで言えば、マンジンガから呪術的な要素を差し引いて残るのがマリーシアという感じで私は捉えています。ですからほとんど同じ内容を別の呼び方で呼んでいると考えて差し支えないと思います。

この本で著者は、私たちがカポエイラについて考えているのと同じことを、サッカーの中で考えています。どうやらブラジルのサッカーの強さにはマリーシアという要素が強く関係しているらしい。そしてそれこそが日本のサッカー選手に欠けているといわれている。そもそもマリーシアとは何なんだ。まず戸塚さんはその正体の分析から始めます。次にどうしたら日本人選手がそれを身に付けられるかを、ブラジル人選手たちへのインタビューを中心に探っています。

上の文を、サッカーをカポエイラに、マリーシアをマンジンガに置き換えて読み直してみましょう。ブラジルのカポエイラにはマンジンガという要素が強く関係している。それこそが日本人カポエイリスタに欠けているようだ。ではマンジンガとは何で、どうしたら私たちはそれを身に付けることができるのか。

どうですか?ほんとに私たちがマンジンガについて考えてきているのと同じテーマを、戸塚さんはサッカーの中で追っているんですね。少なくともそういう視点で読むといろいろ参考になる点が見えてきます。

最初に彼は次のように仮説を立てます。マリーシアとは、「狡猾さ」だけを指し示す言葉ではない。「柔軟性を持った発想力」である。それは「勝つために必要な駆け引きである」から、ブラジル人特有のメンタリティや価値観ではなく、フットボーラーならだれもが身に付けるべきスキルである。

次に、サッカーにおいてマリーシアとされる要素を、実際の試合中の具体的な事例に基づいて抽出していきます。その事例の豊富さと分析の精緻さがこの本の真骨頂だと思います。興味のある方はぜひ実際に本を手に取って読んでみてください。ここでは戸塚さんが取材したいろいろな人たちの言葉をいろいろなページからピックアップしてみますね。

*マリーシアとは、指示を待たず、自分の頭で判断すること。
*ゲームには相手があるので、自分の思い通りには進まない。そういう計画が狂った中で柔軟に対応できること。
*相手が格上でも格下でもひるんだりなめたりせず、強い気持ちを持って冷静にしたたかにゲームを進めること。
*精神的なコントロールができること。
*走るスピードや距離よりもポジショニング、状況判断がマリーシア。
*インテリジェンス、ひらめき、創造性。

いかがですか。カポエイラのジョーゴ、マンジンガの特徴としてもそのまま当てはまることばかりですよね。

さらに興味深いのは、ブラジル人がどうやってマリーシアを身に付けるのかという戸塚さんの問いにブラジル人選手たちが答えるくだりです。ある選手は、「ストリートでいろいろな年齢の人たちとサッカーをすることで『生き抜くうえでの術』とでもいえるような思考力を身につける。ストリートのサッカーでは、年齢や体の大小に関係なくボールを奪い合う。日本とは子供の育つ環境が違う。勝たない限り何かを得られない人生を歩んできた人が多い。マリーシアは自然と身につく」と言います。

ここでもストリートの経験が登場してきました。前回の記事「マンジンゲイロ」の内容と重なりますね。ストリートでの厳しい生活にさらされることで自然に生き残る術を学ばされる。そこでむしろ肉体的な強さに頼らないところにマリーシアの生まれる素地ができるというわけでした。

またある選手は「ブラジルではすべての選手が対等。大人になるのが早い。自立するのが早く、自分に自信を持つのが早い。これらすべてストリート経験のたまもの。一方、日本人は真面目、謙虚、先輩をリスペクトしすぎでマリーシアを発揮する妨げになる。年齢の壁、上下関係に影響されすぎ。日本人はリスクを避ける傾向もある」と指摘します。

私の師匠コントラ・メストリ・シャンダゥンも同じ点を指摘します。「ビリンバウの下にしゃがんだら、最初にすることはジョーゴする相手のタイトルや段位を忘れることだ。たとえ相手が有名なメストリでも、手が2本、足が2本の一人のカポエイリスタだと思うこと。そう思わない限り自分のジョーゴは決してできない」。つまりマンジンガなど発揮できるどころではないということです。

和を以て貴しとなす日本民族には、「分かっちゃいるけど、なかなかね」と思ってしまう、耳の痛い指摘ですね。だからこそシャンダゥンは続けます。

Fora da roda pode ser japonês mas dentro da roda tem que ser brasileiro.(ホーダの外では日本人でもいいけど、ホーダの中ではブラジル人でなくてはいけない)。

この言葉は実に深いです。

指摘されたような日本人が背負っている文化的な殻を突き破ってマンジンゲイロをめざす。できることなら日本人の美徳とされる資質はそのままに、ホーダの内と外を巧みに使い分けられるレベルに達するところに、スーパーサイヤ人ならぬ、スーパー日本人に進化する可能性が開けているんだと思います。この点こそ私たち日本人にとっての最大のカポエイラノススメだと、私個人的には考えているくらいです。

そういえば2008年にメストリ・フェハドゥーラ(当時はコントラ・メストリ)を日本に招聘してワークショップを開催したときに、日本人は恥ずかしがり屋だ、カポエイラをするときは変身しなくちゃいけないと言い、仮面ライダーが変身するようなポーズをしながら「ジャポ・ネーゴ(japo-nêgo)!シャキーン」と私たちに変身を促していたのを思い出します。これも日本人の殻に閉じこもっていては越えられない一線があるということを教えてくれていたんですね。(つづく)

あなたのカポエイラはどれですか?



先日お知らせしましたとおり、11月3日(土)に開催するヴァジアンド2018(Vadiando 2018)の自由研究発表の時間に、「コンテンポラニアのアンゴーラとアンゴレイロのアンゴーラの違いについて」というお題で、参加者の皆さんといろいろ意見交換する時間を取る予定です。

当日は他の発表もあり、あまりのんびりできませんので、参加予定の方は、拙稿「あなたのカポエイラはどれですか」をお読みいただければと思います。まことに手前味噌で恐縮ですが、基本的な論点、議論の出発点を共有しておくことで、当日はより濃密な話し合いができると思いますので、もしお時間が許せばぜひ目を通してみてください。

実はこの記事を書くことになったのは、アンゴレイロのある友人から電話をもらい、「capoeira só angola(カポエイラはアンゴーラだけ)」というフレーズをどう解釈するか尋ねられたことがきっかけでした。記事の最後に2006年と記されているので、もう12年も前のことなんですね。そう、あなたです(笑)。思い出しましたか?

ヴァジアンド当日の流れは以下の通りです。最後の打ち上げパーティーはメンバーがみんな一品ずつ持ち寄ります。私は特製カレーとカイピリーニャを作ります!打ち上げだけでも大歓迎ですので、皆さんぜひお気軽に遊びににいらしてください。

■日時:2018年11月3日(土)
■場所: アンゴレイロス・ド・セルタゥン名古屋(名古屋市千種区内山3-26-13 4F)

■プログラム:
13:00 オープニング挨拶

13:10 自由研究の発表
*カポエイラの楽器でブラジル音楽演奏(Três Tucanos:アリスカ、ポチ、ベイジャ・フロール)
*腰を痛めないポンチ(カスターニャ)
*ジンガについて(ソウ、ゴウフィーニョ)
*アンゴレイロのアンゴーラとコンテンポラニアのアンゴーラの違いについて(ブランキーニョ、久保原)
*こどもクラスの練習成果発表

15:40 新入メンバー歓迎ホーダ「Roda de boas-vindas」
16:00 親睦ホーダ
17:30 サンバ・ジ・ホーダ
18:00 打ち上げパーティー

■服装:グループに所属している方はユニフォーム(長ズボンと室内シューズを着用ください)

■参加費:無料

 

 

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