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拙稿「カポエイラ -黒人奴隷の遊戯・武技から世界遺産へ」 ダウンロードご自由に!



2017年12月2日に天理大学アメリカス学会で行われたシンポジウム「ブラジルのなかのアフリカ」で発表した内容を論文っぽくまとめたものが『アメリカス研究』第23号(2018.11)に掲載されました。こちらからダウンロードしていただけば全文お読みいただけますので、関心のある方はどうぞ。「カポエイラ入門」のトップページにもダウンロードのリンクを張っておきました。

始まりはこんな感じです・・・

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はじめに

アフリカ人奴隷の遊戯・武技としてブラジルで創造されたカポエイラは、19世紀から20世紀初頭まで、根絶されるべき社会の病理として徹底的な弾圧を受けていた。1890年に始まる共和制では、刑法の中で明確に犯罪として規定され、長期の拘留や島流しの刑罰が科せられた。それからわずか120年足らず。2008年にはブラジルの文化省によって国を代表する無形文化財として認定されたばかりか、2014年にはユネスコによって人類の無形文化遺産にまで登録されている。かつては社会問題を引き起こす原因として扱われたものが、今日では逆にさまざまな社会問題を解決するツールとして多くの社会プロジェクトの中にカポエイラが取り入れられている。全世界160以上の国々で愛好されており、カポエイラの聖地とされるバイーア州サルヴァドールには、ルーツを求めるカポエイリスタたちが世界中から押し寄せている(IPHAN, 2014)。

「ブラジルの中のアフリカ」という視点から現在のカポエイラをながめてみると、表象としてはアフロ・ブラジル文化の典型としてのイメージを保持しつつも、実態としてはそのアフリカ性がどんどん薄れつつある状況がうかがわれる。今日のカポエイラは、ブラジル国民が自らの人種的ルーツに関わらず「われわれの文化」として誇りうるナショナル・シンボルであり、むしろ文化的盗用(apropriação cultural)と評されるほど、非黒人のヘゲモニーが優勢となっている現状が見られる。

例えばそれはブラジル中に支部を展開する巨大グループのトップが、ことごとく白人のメストリ(師範)たちで占められていることに端的に表れている。カポエイラを欧米に伝播した先駆者たちも、その多くが白人のメストリであった。それに対しバイーアの長老たち(多くは黒人のメストリ)はたとえ有名ではあっても、経済的にはきわめて困難な状況を生きている。人種主義(racismo)は厳然と存在し、黒人を取り巻く状況は、政治的にも経済的にもカポエイラの果たした社会的上昇に見合うだけの向上を遂げていない。

本稿では、カポエイラの社会的上昇、すなわちエスニックなシンボルがナショナルなそれへと変容していく経緯を概観した上で、今日のカポエイラが直面する問題点についても触れてみたい。



学ぶのは生徒だ(aluno que aprende)



私たちのライン・グループでは、0時以降の配信は控えるという暗黙の掟がありますが、その晩、子供たちの寝静まった部屋に明るい小鳥の鳴き声が響きわたったのは午前1時を過ぎていました。あ~、またこれで炎上するか、と恐るおそる開いてみるとメンバーのイルカ君からでした。こんな時間に何事かと一抹の不安も覚えながら開けてみれば、造花のヤシの木をブラジルから運んでくれた仲間へのねぎらいと、私がアカデミアの壁に掲げた、マンジンガについてのコントラ・メストリ・シャンダゥンのフレーズに対する彼のコメントでした。やれやれ、と思いきや・・・

先日の記事にも写真を掲載してましたが再録しておきますね。

Se dominar para poder dominar
Ser educado com quem não tem educação
Respeita quem não respeita
Amar a todos uns perto e outros longe
Mandinga é a arte de viver bem com todos principalmente consigo mesmo

他人を意のままに動かすために、まず己を律すること。
礼儀をわきまえない者に対して礼を尽くすこと。
自分を尊重しない者を尊重すること。
ある者は近くある者は遠く、すべての人を愛すること。
マンジンガとはすべての人々とよりよく生きるアートである。とりわけ自分自身と。

5つあるフレーズのうち、イルカ君は「礼儀をわきまえない者に対して礼儀を尽くす」という一文が特に気に入ったと言います。以下、許可をもらって引用してます。

 シャンダウンの言葉ですが、最近思う所あって覚えたフレーズがあります。
それは「礼儀を知らない人に礼儀を尽くしなさい」というものです。
無礼な人に「無礼だ。失礼だ」と言うのは凄く簡単なんですね。だって相手が間違ってるんだから。
自分が正しい時ほどコメントに楽な時は無いです。そりゃ正しいんだから楽ですよ。相手を非難する事も楽です。正しいんだから。
でもそこからは何も生まれないと思います。ただ自分が正しいから「アイツが悪いんだ」。で、向こうが悪いのを指摘して何がしたいのか。その先が無い。ともすれば「俺は正しかっただろ」っていう自己満足に陥って終わる。
でも、「礼儀知らずな相手に礼を尽くせ」という言葉には「最終的には仲間になろうよ」と言うような優しさを感じます。単に間違いを指摘して終わりで無い。その先を見据えてる気がします。
最後の「『最終的には仲間になろうよ』というような優しさを感じます。単に間違いを指摘して終わりでない優しさを感じます」という感じ方は、私にはないものでした。たしかにね~、とうなずいてしまいました。

しかし私が感激したのは、彼自身の感じ方もさることながら、この学びの姿勢、メカニズムのほうでした。メストリ・ヘネは「Mestre não ensina. Aluno que aprende(メストリが教えるのではない。生徒が学ぶのだ)」と言います。動きにせよ考え方にせよ、メストリがいくらやって見せても、説いて聞かせても、最終的に学び取るかどうかは生徒の側の問題だということです。生徒に、学びの強い欲求があって、主体的に学び取りに行く姿勢がある場合にしか、本当の学びは生起しないということですね。

そういう意味で私自身がこれまで何度となく注意されてきたことは、「お前は出来上がったものを求めすぎだ」という点でした。ポルトガル語では、「Você tá querendo uma coisa pronta.」と言います。これは私自身がわりあい理詰めで理解して、また他人にも理屈をふまえて伝えたいと思うほうなので、ときにはメストリにも細かい説明を求めてしまうことがあったんです。メストリたちの言う「出来上がったもの(coisa pronta)」というのは、相手に全部解説してもらって、自分の頭で考える余地のないものという意味です。親に全部かみ砕いてもらったものを丸飲みしているだけだと、いつしか自分で噛む力を失ってしまうでしょう。結局は自分の頭で考えて、自分でつかみ取ったものしか腹に落ちないということなんですね。そして今日では、私もこれと同じことを生徒たちに言っています(自分も注意しながら)!

イルカ君の場合も、おそらく彼自身の個人的な文脈からこのフレーズがとりわけ心に引っかかって、ほかの人より1段も2段も深い解釈へと至ったのだと思います。こういう学びの場を目の当たりにすることは、教えている人間にとって何よりの報酬である気がします。段位もコルダゥンもないカポエイラ・アンゴーラですが、学び、成長は着実に起こっているんだと垣間見せられた出来事でした。おめでとう、イルカ君!

というわけで真夜中の小鳥の声もさわやかに聞こえたのでした。以上、感激のおすそ分けでした。

あなたは疲れていても練習に行くのだ!



「たとえビーチに人がいなくても太陽はそこにいて照らしていなくてはならない」

前回の「カプー20周年に思う」の記事で、このメストリ・プリーニオの言葉に結構反響をいただきました。とくに指導者の方々ですね。カポエイリスタではなく、サンバをしているという方からも気持ちを代弁してくれたとのコメントをいただきました。

しかし実際のところ指導者も生徒もカポエイラに対する情熱も取り組むペースもそれぞれなんですよね。当たり前のことです。たとえ気持ちがあっても仕事や家の事情がそれを許さないということだってもちろん出てくるわけです。それを杓子定規に「おまえにとってカポエイラの優先度はその程度か」と切り捨てるのは、私たち指導する者の傲慢だと思います。

それにしても、です。

では、生徒は自分の気が向いたときだけ練習に顔を出すだけでいいのか。いや、それだけでもないよ、というのが今日の言いたいことです。そういう意味で、案外見落とされがちな視点を一つだけ確認しておきたいと思います。

それは、カポエイラの練習に行くということは、その人本人が上達するという目的以外に、そこに集まる仲間たちに協力するという側面があるという視点です。たき火に薪が一本余分にくべられるようなイメージですね。とくにうちのような少人数のグループでは、一人の存在というのがものすごく大きな意味を持ちます。「数は力なり」とは言ったもので、参加者が一人増えることで場のエネルギーは数倍にアップします。その人が参加することで、練習相手が一人増え、バテリアの楽器が一つ増え、それによってジョーゴできる人が一人増えるわけです。

つまり生徒としては、自分が練習に行くことは自分のためであることは言うまでもなく、同時にグループに貢献するためでもあると言えることになります。「自分のためだけじゃないんだ、仲間のためでもあるんだ」という視点を持つことで、テンションの低い日も易きに流れる気持ちに歯止めをかけられるかもしれません。

同じ考え方は楽器の練習にも当てはめることができます。私を含めておそらくほとんどの方は、当初、動きに関心を持ってカポエイラを始められたと思います。では音楽に関心がないからビリンバウの練習をやらなくていいかといえば、そうもいかないわけですね。その最大の理由は、その人が楽器を交代できるようになることで、ジョーゴを楽しめる仲間が一人増えるということです。自分がビリンバウを交代できるようになれば、みんなが満遍なくジョーゴを楽しめる状態に、グループ全体が一歩近づけるというわけです。カポエイラにおける楽器の練習は、個人の好き嫌いに任せられるものではなく、メンバーに対する思いやり、グループに対する貢献という視点も忘れられてはいけないと思います。

おまけですが、私たちアンゴレイロス・ド・インテリオールで練習の最初と最後に唱えるフレーズがあります。

Eu seguro sua mão na minha(私はあなたの手を取ります)

para que juntos possamos fazer(みんなでいっしょにするために)

tudo aquilo que não podemos fazer sozinhos(ひとりではできない全てのことを)

このフレーズを全員で手をつないで唱えてから練習が始まります。ちょっと素敵じゃないですか?(ちょっぴり自慢)。カポエイラって「集団競技」なんですね!

カポエイラとカポエイリスタ

WhatsAppで回ってきた作者不詳のテキストですが、私たち自身を振り返る助けになると思ったので、訳して紹介します。

誰もが自分のなかに両方の要素のあるのを見ると思います。きっと大事なのは自分が何を目指して、何のためにカポエイラをしているのかを分かっていることですね。

私が一番ハッとさせられたのは次のフレーズでした。朝からグループの仲間、メストリたち、カポエイラをさせてくれている家族に感謝です!

O capoeira não tem identidade , tem nome.(カポエイラは、有名ではあるがアイデンティティーがない。)
O capoeirista tem família.(カポエイリスタは、ファミリーを持っている。

あなたは何を思いましたか?

カポエイラは、すべてを知ったつもりでいる。
カポエイリスタは、常に学び続けている。

カポエイラは、有名ではあるがアイデンティティーがない。
カポエイリスタは、ファミリーを持っている。

カポエイラは、練習せずにホーダばかり渡り歩く。
カポエイリスタは、誰よりも早く練習に行く。

カポエイラは、自分だけのために学ぶ。
カポエイリスタは、分かち合うために学ぶ。

カポエイラは、アイドルはいるがメストリを持たない。
カポエイリスタは、父親、友人としてメストリを持つ。

カポエイラは、自分に有益な行動をとる。
カポエイリスタは、グループにとって有益な選択をする。

カポエイラは、楽器を弾いて歌を歌う。
カポエイリスタは、ホーダのエネルギーに応じてリズムの緩急をつけられる。

カポエイラは、気が向いたときに参加する。
カポエイリスタは、いつもカポエイラの中にいる。

カポエイラは、グループやメストリの欠点ばかりを批判する。
カポエイリスタは、メストリを理解しようと努め、協力し、学ぼうとする。

カポエイラは、最後まで一人のカポエイラにすぎない。
カポエイリスタは、いつかメストリになる。

カプー20周年に思う

昨日は月さん率いるカプー・ジャポン20周年記念のバチザードに行った。おそらく私と同じ感慨を抱いて昨日のホーダを見つめた人はそう多くはないだろう。一口に20年というが、20年といえば、赤ん坊が成人するまでの月日であり、私がカポエイラを始めた当時(1995年)、何の根拠か分からないが生徒がメストリになるには20年かかるといわれていた、そういう年月である。

カポエイラを続けるのはレジスタンス(resistência)だ。その起源から今日にいたるまで、奴隷主から鞭打たれ、警察に拘留され、社会の偏見にさらされ、その歴史を振り返れば、どの時代にもカポエイラを絶やそう、止めさせようという暴力に晒されてきた。それはスポーツ、習い事になった今日でも形を変えて残っている。仕事の疲れ、バイト、他の習い事、家の事情、暑さ、寒さなど、カポエイラの練習に向かう足を止めさせる理由はいたるところに転がっている。その意味では、一人の人間が自分だけのために自分のペースでカポエイラを20年続けるだけでも十分に偉業なのだ。

しかしグループを20年に渡って維持する指導者、リーダーの払う努力、犠牲はまったく別の次元である。生徒にとって、カポエイラは行きたいときに行けばいい場であるが、指導する人間にとってはそうではない。いかに気分が乗らなくても、雨でも雪でもその場に行かなくてはならない。さらには毎月の場所取りの抽選、楽器運びなど裏方の仕事もあるだろう。昔メストリ・プリーニオに言われた言葉が忘れられない。「たとえビーチに人がいなくても、太陽はそこを照らしてなくてはならない」。まさにその通り。指導する人間は「太陽」的であることが求められる。太陽は毎日昇って当たり前。世界を照らして当たり前。たとえ曇って見えないときも、その裏でいつも通り輝いているわけで、別に休んでいるわけではないのだ。聞けば誰もが「ありがたい」と言うが、普段はとりわけ誰にも気づかれにくいそういう役割である。

今日はこんなことをやろう、と前の日から練習のネタを準備しておいて、いさんでスタジオの扉を開けたら誰もいない。そのときの気持ちを生徒が想像するのは難しい。それでも指導者は次回も練習に向かう。指導者にも家族はある。分担すべき家事もあれば、話を聞いてあげるべき妻もいれば、遊んで欲しい子供たちもいる。生徒は休めるが、指導者は休めない。決定的な立場の違いがそこにある。

カプーは20年続いた。では月さんと同世代の人が何人残っているか?もちろん去った人を責めるつもりはまったくない。ただ残った人を認めたいだけである。何人いるか?数えられる人は数えてみて欲しい。何人いるか?

「おめでとうございます」「お疲れ様でした」と人は言い、実際それ以外の言葉をかけるのも難しいが、「さまざまなことx20年」の重みに実感を持って思いをはせられる人は多くはないだろう。それは親の思い子知らずで、まさに親の役割と同じなのだ。子は自分が親になって初めて親のありがたみが分かるという。しかし生徒のほとんどは指導者になることはない。

私もふだん特別濃密な付き合いが月さんとあるわけではないが、これまでひとつのカポエイラグループを、何があっても投げ出さずに切り盛りしてきたという一点をもって、他の誰にも感じえない「同志」の意識を一方的に感じている。心強いことに日本各地には地道に自分の役割を果たしている「月さん」たちが散らばっている。彼らこそがもう30年経ったときに日本のカポエイラの先駆者(ancestrais)として回顧されることになるだろう。

カポエイラはフェスタ。Sim。楽しいスポーツ。Sim。多くの人にとってはsim。しかしその場を在らしめている人間にとっては、それだけではない。カポエイラはレジスタンス。日々戦いの連続なのだ。

ではそういう戦士(guerreiro)たちと共闘する方法は?もちろんある。でもそれは生徒の皆さん、ご自分で考えてみてください。カプーの次の10年、日本のカポエイラの未来は、皆さんのあり方にかかっているわけですから。

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