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ブログ ☆★Roda de Papoeira★☆

「10人の『モア』」として、日本の「モア」として

ひとりの「モア」が死ぬごとに、10人の「モア」が生まれるだろう。

メストリ・コブラ・マンサがペロウリーニョで行ったメストリ・モアの追悼集会での言葉だ。「私たちは立ち止まらない。私たちは黙らない」とメストリ・コブラ・マンサは続けた。

嘆き悲しむだけで、何もしなければ、何も変わらない。私も「10人の『モア』」のひとりとして、日本でできることをしていきたいと思う。

もし今回の事件が大統領選の時期ではなく、あるいはサッカーの話題がきっかけで引き起こされたものだったとしたら、カポエイラ界の反応もまた違ったものになっていた可能性はある。

パウロ・セルジオ・フェヘイラ・ジ・サンタナ容疑者が逮捕歴もある低所得階層の黒人だったことからしても、おそらく人種的な偏見が原因で起こした犯行ではない。彼の住居は、事件の現場となったバーから数百メートルのところにあり、この地区に移り住んで2か月足らずの新しい住人だった。おそらく彼は誰と口論しているか知らなかっただろうし、その意味では「メストリ・モア」を殺したわけではないだろう。ただ自分と政治的信条の異なる人間を許すことができず、短絡的に暴力で解決しようとした、たまたまその相手が私たちのメストリ・モアだったと見るのが冷静な見方かもしれない。憎まれるべきは彼の暴力であり、日々多くの「パウロ・セルジオ」を生み出し続けているブラジルの社会構造だろう。その意味では、この事件を「政治と切り離して考えるべき」「政治の駆け引きに利用しないでほしい」という意見にもうなずける。

ただ今回の事件が起こった背景とその構図は、これまでブラジル社会でカポエイラや黒人が置かれてきた状況、戦って来た歴史からして、あまりにもシンボリックだった。

当時はブラジル大統領選、真っ只中。女性や性的少数者への蔑視発言を繰り返し、黒人や先住民族の権利を奪うことを公言している極右のボウソナロ候補が優勢で、実際10月7日の投票でトップの46%の得票率を得た。28日のアダジ候補との決選投票を前に、ブラジル世論が真っ二つに割れ、マイノリティー集団が未曽有の危機感を募らせている。「ボウソナロを支持するカポエイリスタは、カポエイラに対する抑圧そのものを支援していることに気づいていないのか?」という声がカポエイラ界の良識派の声として大勢を占めていた。

そういう状況の中で起こった今回の事件は、黒人文化の振興やその地位向上運動の先頭に立ってきた人物が、選挙の投票者をめぐる口論でボウソナロの熱狂的な支持者に刺殺されるという構図をとった。「メストリ・モアの死を無駄にするな」という掛け声のもと、反ボウソナロを旗印にカポエイリスタたちの結束がいっそう強まるのもごく自然な流れであった。

カポエイラが今日ある地位に至るまで、決して平坦な道のりではなかった。国家権力からの様々な抑圧を生き抜き、先人たちが文字通り命を賭して伝統を守り抜いてきた歴史がある。残念ながらその歴史は現在進行形であることを、メストリ・モアの死をめぐるすべての動きが物語っている。

カポエイラは単なるスポーツではない。奴隷とされた黒人たちが、時に武芸として時に遊びとして、身体的、精神的解放を求めてたしなんだ身体文化であり、抑圧的な社会を生き抜くための処世術でもあった。20世紀の中ごろ以降は教育的な要素が強まり、カポエイラのホーダは、人種、性別、国籍を超えた共存の場となり、他者の尊重、異文化への寛容といった市民性を育む教育スペースとして機能している。カポエイラがそういう政治的・社会的なメッセージを背負った文化だということ。残念ながら、この本来最も本質的な側面が、われわれ日本人カポエイリスタには一番縁遠い。



10月14日に私たちアンゴレイロス・ド・セルタゥン名古屋では、メストリ・モアの追悼ホーダを行った。今回の大統領選挙の争点やそれをめぐる支持者たちの思い、自分と異なる意見を安易に暴力で解決しようとするブラジルの現状とそれを下支えする社会的な構造があることなどを話し合った。カポエイラが単なるブラジルのエクササイズではなく、社会的、政治的な戦いと切り離せないという事実を、多くのメンバーがあらためて認識することになった。



私たちは黒人ではない。しかしカポエイラの歴史認識を通して学べることは、黒人をはじめとする被抑圧者の視点で世界を見ること、直接的・間接的に抑圧に加担することで抑圧者の側に身を置かないという意識を持つことだろう。

メストリ・コブラ・マンサの集会を報じたビデオクリップの最後にキング牧師の言葉が引用されていた。

最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。

日本のカポエイラとして、日本人の「モア」として、日本人だからできること、日本人にしかできないこと、日本人だからやりやすいこと、それらを模索し、実行していくことが、世界中の「モア」たちと連帯する道だと思う。

Viva Mestre Moa do Katendê! Moa vive!

アンゴーラって何? アンゴレイロって誰?


11月3日(土)に開催するヴァジアンド2018(Vadiando 2018)の自由研究発表の時間に、「コンテンポラニアのアンゴーラとアンゴレイロのアンゴーラの違いについて」というお題で、参加者の皆さんといろいろ意見交換する時間を取る予定です。

そもそもの発端はこういうことです。東京でコンテンポラニアのカポエイラ団体に所属していたBさんが、名古屋に転勤になったのを機に私たちのグループに入会しました。そこで以前のグループで行っていたアンゴーラのジョーゴと、アンゴレイロス・ド・セルタゥンで学び始めたアンゴーラの違いに戸惑いと興味を抱き、自由研究のテーマとして考えを整理してみたいということになりました。私はもちろん大賛成し、せっかくだからいろいろな角度からみんなで考えてみようと提案した次第です。

うちのグループだけで盛り上がるにはもったいないくらいのビッグなテーマですので、こういう話題に関心のある方はぜひいっしょに考えを深めてみませんか?いくつか参考の映像なども流す予定です。

*ゆっくりのスピードで低い姿勢のジョーゴをすればアンゴーラなの?
*黄色と黒のユニフォームでない人はアンゴレイロではないの?
*アンゴレイロとカポエイリスタって何が違うの?
*アンゴーラではケイシャーダをしたらダメなの?
*靴をはかないとアンゴレイロではないの?
*コルダゥンをしてるアンゴレイロってなしなの?
*ようするにアンゴーラって何?アンゴレイロって誰?

こんな正解を見ない問題たちに、みんなの経験や考えを持ち寄って立ち向かってみましょう!果たしてより多くの人が納得のいく地点にいたれるのかどうか。私としても考えをひとつにまとめようなどという尊大な考えはよもや持っとりません。目指す収穫は、他人の考えを聞きながら、あれこれ思索を深める中で、自分のカポエイラに向き合う姿勢をより鮮明にしようということでしょうか。

ホーダの後には、持ち寄りパーティーも行いますので、ぜひ最後までゆっくりしていってください。

ヴァジアンド2018(Vadiando 2018)

■日時:2018年11月3日(土)

■場所:アンゴレイロス・ド・セルタゥン名古屋(名古屋市千種区内山3-26-13 4F)

■プログラム:
13:00 オープニング挨拶
13:10 自由研究の発表
15:40 新入メンバー歓迎ホーダ「Roda de boas-vindas」
16:00 親睦ホーダ…
17:30 サンバ・ジ・ホーダ
18:00 打ち上げパーティー

■服装:グループに所属している方はユニフォーム(長ズボンと室内シューズを着用ください)

■参加費:無料

カポエイラノススメ(10)

2週間半におよんだコントラ・メストリ・シャンダゥンのワークショップも終わり、私の仕事も平常に戻って、ようやく以前のリズムでブログに向き合えるようになって来ました。

さて、前回は「マンジンガとは何か?」というテーマで、マンジンガという言葉の由来や現代のメストリたちが考えるマンジンガのイメージをご紹介したところで終わっていました。今日は、その記事のfacebook上の投稿にいただいた、Beija-Flor Mieさんのズバリ核心を突いたコメントから始めたいと思います。

「日常生活でのマンジンガ、さしずめ『生き抜く知恵・力』でしょうか。」

まさにその通り。ここにすべてが言い尽くされていると思います。ホーダの外の世界におけるマンジンゲイロとは、目先の利益のために相手を欺いたり、自分だけの得を求める人のことではありません。コントラ・メストリ・シャンダゥンは「争いを避けること」、メストリ・ジョアン・ピケーノは「真に強い男とは友達の多い男だ」という表現を使いますが、私の希望も練りこんで定義付けるなら、真のマンジンゲイロとは、他人とむやみに衝突することなく(できればすべてを味方に付けながら)、この世をハッピーに生き抜く術を身に付けた人のことです。

争いを避けるには、自分の感情をコントロールする必要が出てきます。イライラ、見栄、嫉妬といったネガティブな感情の高まりを抑えきれないとき、怒りや不安の矛先は往々にして相手に向けられます。それを自分のうちに収めて、平静でいられるようになるには、いわゆる人格者にならないといけないわけです。

面白いことに、今日偉大なメストリとみなされる人たちがカポエイラを始めた動機を見てみると、みな判で押したように同じであることに気づきます。そうです、最初は誰もがケンカに強くなりたかったのですね。メストリ・ジョアン・ピケーノは無頼漢(valentão)になりたかったと言っていますし、メストリ・ブラジリアも、カポエイラを習っていた友人にケンカで負けたことがカポエイラを求める動機になったと語っています。でも彼らはじきにその無意味さに気づき、別の価値を見出していきます。このあたりは武道の達人と言われる人の修業プロセスにとてもよく似ていますね。彼らは、本当の敵は自分の外にではなく内にあること、己のコントロールこそが重要だと気付きます。結果として、争いを避けるという方向を求めるようになるのです。

本来殺傷の技術であった武道の今日的意義とカポエイラのそれは多くの点で重なると私は考えています。

合気道家で哲学者の内田樹さんは、武道修業の目的は「危機的状況を生き延びるための能力」を高めることにあるとして、剣を器用にさばく能力よりも「どこでも寝られる」「何でも食える」「誰とでも仲良くなれる」能力のほうがはるかに有用だと言っています。これを読んだとき、私の中では真っ先にシャンダゥンのイメージが浮かびました。その後で、あの人もこの人も、と幼少期を路上で過ごした多くのメストリたちが思い浮かびました。これこそブラジルのストリート・チルドレンたちが身に付ける生きる力そのものではありませんか。

Beija-Flor Mieさんのコメントは次のように結ばれています。

「コツコツ真面目に誠実に、という日本的感覚とは異なっているところが、なかなか身につけるのが難しく、また憧れるところかな、と思います。」

マンジンゲイロになるための資質や環境があるとすれば、それはまず確実にブラジルのストリートにあるような気がします。であれば私たち日本人カポエイリスタにとっては、「なかなか身につけるのが難しく、また憧れるところ」になるのも致し方ないところですよね。

私の短く偏ったブラジル経験から見て感じるのは、ブラジル社会は「お化け屋敷社会」だということです。ブラジルで生活している人は、社会のいたるところにオバケが隠れていることをはじめから分かっています。次の曲がり角にオバケが隠れているんじゃないかという警戒心を持っているから、慎重に歩みを進め、おどかされないように角を遠巻きに曲がろうとします。びっくりしないようにだまされないようにという心の準備を常に持って生活しています(というか、生活せざるを得ないのです)。なので仮にオバケと鉢合わせることがあっても「ほらね」「やっぱりね」でやり過ごせるのです。

それに対して日本社会は平和ボケ。日本人は騙さないだろうという、根拠のない信頼感が私たちの中にはあって、実際にそれがかなりの程度機能しているという現実があります。たとえば食品でも衣類でも電化製品でも、日本製なら安心、日本人の作ったものなら信頼できると多くの人が考えています。日本人は不正を働かない、日本人は裏切らないという信仰。こういう信頼感が持てることは、言うまでもなく誇らしいことですし、それこそ他国の人々がうらやむ美徳です。反面、そのコストとして、裏切りやイレギュラーな局面への対応能力の低さ、そもそも不測の事態へのアンテナの鈍さという脆弱性を抱えている点は否定できません。要するにピュアでイノセント。そのいい面と悪い面のうち、悪い面が日本人をマンジンゲイロから遠ざけているのです。

強い者が生き残る。弱肉強食で無慈悲なストリートという空間では、お人よしでは生き延びられません。おとといから何も食べていない、お腹をすかせた子供たちをどうするか。ストリートでは、文字通り生死をかけた戦いが繰り広げられています。そこで肉体的な力に恵まれていないものたちは、発想力、演技力、話術に磨きをかける必要が出てくるでしょう。命をつなげるのに必死な全人格たちがしのぎを削っている場がストリートです。

19世紀後半から20世紀の中ごろにかけて、カポエイラたちの舞台はストリートでした。カポエイラを学ぶのも、ホーダをするのも、警察に捕まるのもストリートでした。そこで生き残るすべての必要性をふまえて、カポエイラという「武器」を身につけた者たちがいて、そのなかでさらに信仰や祈祷の「魔術」をまとった者たちがマンジンゲイロとして知られるようになったのだと思います。(つづく)

番外編

本稿のfacebookでの投稿に、私の師匠コントラ・メストリ・シャンダゥンが寄せてくれたコメントを翻訳して紹介します。

Se dominar para poder dominar
Ser educado com quem não tem educação
Respeita quem não respeita
Amar a todos uns perto e outros longe
Mandinga é a arte de viver bem com todos principalmente consigo mesmo


他人を意のままに動かすために、まず己を律すること。
礼儀をわきまえない者に対して礼を尽くすこと。
自分を尊重しない者を尊重すること。
ある者は近くある者は遠く、すべての人を愛すること。
マンジンガとはすべての人々(とりわけ自分自身)とよりよく生きるアートである。

 

 

「悟りにいたるには?」「どんどん失敗せよ」

私の師匠メストリ・ブラジリアはこんな感じのメストリです。メストリ・ブラジリアなしでは今日の私はありません。

これは!と感じた人は明日の午前9:30に名古屋市は千種駅前徒歩1分のアンゴレイロス・ド・セルタゥン名古屋へ。メストリ・ブラジリアの愛弟子ボネカによるワークショップで、サンパウロのメストリ・ブラジリアとWEBでつないで講義と練習が行われます。

ボネッカと「Aprendendo mais pela paz – Japão 2018」@名古屋

■日時: 2018年9月23日(日) 10:00-13:00

■場所: アンゴレイロス・ド・セルタゥン名古屋(名古屋市千種区内山3-26-13 4F)

■テーマ/プログラム
テーマは「メストレ・ブラジリアの教え」。前半は理論(座談会)、後半は実践(実技)とします。東京、名古屋、大阪は、メストレ・ブラジリアがテレビ電話で参加する予定です。質問等ぜひ持ち寄ってください。

9:30~11:30 セオリー(ビデオ通話)

11:30~13:00 実践(Boneca)

■参加費: メストレ・ブラジリアのグッズ(CD、DVD、本など)購入協力をお願いします。

■申し込み/お問い合わせ: 申し込みは不要。お問い合わせはMSNで「Boneca Yayoi」までよろしくお願いします。

 

カポエイラで変わるかな?

自分と違う考え方を尊重する、異質なものと共存する。カポエイラから私たちが日々学ぶ大切な要素です。

さて、上にかかげたのは【私が見た中で最も素晴らしい絵】と題されたイラストです。

右の人には「9」に見えるけど、左の人には「6」に見える。立ち位置によって同じものでも見え方が異なるというメッセージが、幼稚園児にも分かるように表現されていて、素晴らしいですよね。

私が引っかかったのは、その下のポルトガル語でした。直訳するとこうなります。

「あなたが正しいというだけで、私が間違っているわけではない。あなたが私の側を見てないだけです。」

私はこれを見たときブラジル人の「押しの強さ」を感じました。あくまで正しいのは私で、正しくないのは私を理解しないあなたのほうだという響きを感じてしまうのです。「押しの弱い」日本人なら次のように言いなおすでしょう。

Só porque eu estou certo, não significa, você está errado. Eu apenas não vejo a vida do seu lado.

「私はこう思いますが、別にあなたが間違っているわけではないですよ。私のほうがあなたの事情を理解してないだけなのです」

なんとも気弱ですよね(笑)!でも多くの日本人には、こちらのヴァージョンのほうがしっくり感じられるのではないでしょうか。(※日本人の押しの弱さについては、こちらの記事カポエイラノススメ「冷静さと理」の流れで書いています)

どちらがいい悪いの問題ではありません。でもカポエイラはブラジル文化。ざっくりしたイメージですが、上のような国民性、文化的な違いを体感し、理解し、必要に応じて埋め合わせるのも、私たち日本人のカポエイラ修練の大きな目的になると思います。

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